写真-1 清水谷公考
これを受けて政府は、三月十日太政官代に三職を召し、天皇臨御の下に蝦夷地開拓・鎮撫使派遣の可否・遅速を下問し、十二日までに建議すべきことを令した。これに対する答議は、ほとんどの者が蝦夷地の状況に疎いため具体的内容に乏しいのであるが、大方は初めて蝦夷地の問題に注目させられ、取りあえず蝦夷地の開拓ないしは鎮撫使派遣を容認している。ところが高野・清水谷の両名は、さらに同じく慶応四年三月十九日に再建言をなした。ここでは七カ条をあげ「見込之有増(あらまし)」として、蝦夷地開拓の方法と内容を述べている。ここに見られる具体的かつ的確な状況把握の背景には、幕末に蝦夷地あるいは北蝦夷地に赴き、そして清水谷と接触していた岡本文平(監輔)・山東一郎らの存在を見逃しえない。この建言の一条に
一 箱館表所置相付候上ハ、夷地巡見イタシ、自然石狩等之所ニ引移リ、徳川氏因循姑息之風習ヲ令一洗、奥地開拓之策ヲ運シ、大義天下ニ相貫候様仕度、石狩近辺ハ全島要害之地ニ御座候由、彼地ニ根拠イタシ、是迄客ニ取扱候場所ヲ主と変候得ハ、早々開拓之功モ相立候道理ト存候
(復古記 二)
と、新政府に対し、初めて全蝦夷地支配の拠点として石狩を提示しているのである。
この再建言を受けた政府は、ここでも再び議することとなり、三月二十五日議事所において三職および徴士列座のもと、副総裁岩倉具視より蝦夷開拓事宜三条の左の策問がなされた。
これに対し答論が述べられているが、第一・二条に関しては大半異存はなく(第三条に関する答論は見られない)、特に第二条の人選に関しては具体的に、総督として仙台・加賀・大野の三藩主、また他の人選には建言者の高野・清水谷や松浦武四郎・岡本文平の名が挙げられている。これらの討議の経過をふまえて岩倉は、「衆議ニ従テ先ツ人撰ヲ決定シ、然ル後裁判所取建、追々開拓ニ手ヲ下スヘシ」(同前 三)と宣して、議事は終わったのである。