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東久世長官の任命

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 ところがその翌日(八月二十四日)に大久保は、「今朝東久世公開拓長官、町田被遣候事共、岩公え建論一封を呈し候、委曲御承知之趣也、一寸訪副島子東久世之事示談」(大久保日記)と、一変して東久世通禧の長官工作を行っている。これを受けて岩倉は同日、三条の同意を得、直ちに太政官へ申し入れて同じく同意の返答を受け、さらにその日の内に東久世への説得交渉に入った。大久保への岩倉の報告に「密示ノ旨ヲ以て」とか「極々内々申入」との表現を使用しているが、短兵急に極秘の行動で工作を進めたことがわかる。

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写真-2 東久世通禧(札幌市 渋谷四郎氏蔵)

 さて交渉を受けた東久世は「不平歎息真実退身決意」であった。その理由は政府部内における「草莽徒西洋深酔説」の輩の跋扈であり、また自身は御一新以来特に外国関係に苦慮し対応してきたにもかかわらず、今日の世評となって譴責を受け、「況ヤ自分不正ノ覚ニ無之旁慨歎極リ、最早是迄ト決心ノ旨落洩吐露ノ次第」で、長官問題は断然と拒否された。しかし岩倉の「懇な申入」によって徐々に氷解、ついに承諾に至ったと岩倉は報じている(大久保関係文書 一)。
 他方、岩倉は同日黒田と会い、何分兵部省や西郷招請の重要な件があり、また吉井の内談もあったので、「断然北地ハ止メ申候」と開拓次官の内定を破棄する旨を伝えている(同前)。かくして八月二十四日という一日の経過の中で、急転直下東久世の長官内定となり、翌二十五日、三日前に大弁に就任したばかりの東久世を開拓長官に任命し、翌日それを東久世は拝命したのであった。