開拓使の定額米は、明治二年(一八六九)八月の決定当時一万石であった。その一万石の調達を請け負ったのは、七〇万両の献金で盛岡への復帰を許されたばかりの盛岡藩であった。しかし明治二年の凶作を直接に受けた南部地方は、救助米が必要なほど米不足であった。そのため不開港場である宮古へ外国船で南京米を輸送しようとまでしている(諸官省往復留 道文一四二)。そのような盛岡藩内の事情に加え、盛岡藩は東北戦争後も新政府への恭順の態度を示さず、反政府的態度をとりつづけた(松尾正人 廃藩置県)。そのため開拓使へ渡す米も不足がちで、開拓使から再三の督促や大蔵省からの督促を受けた。それでも盛岡藩は、凶作状況を理由にして調達総額を八〇〇〇石に減らしてもらった(開拓使公文録 道文五七〇二)。しかし開拓使側の言い分では、二年中に到着した分は正確に把握できないが、ある史料では一二〇〇石余である(明治二年書類 道文一五四)。定額米の供出の不十分なまま盛岡藩は、三年三月に廃藩願いを出して許可され、七月に廃藩となった。