このような不本意な開拓使支配への編入であったが、移住の準備は着々と進められていた。まず高橋陸郎は開拓使へ五月七日に地所割渡願を出している(岩村判官在職中往復綴込 道文一九一)。この場所については記載がなく、またすぐに指令もおりず、開拓使支配という彼らの処遇と相俟って、開拓使内部でも意見の一致をみなかったようである。ただ開拓使では彼らを麻畑の開墾にあたらせる計画であったらしく、十文字龍助の『日記』(市史 第六巻)の三年八月十六日に、「木村庄治来ル。監事(薄井龍之)の口上、酒上麻畑の積書を申付く」とあり、木村庄治が酒席の上であるが薄井監事から麻畑開墾の見積書の提出を命ぜられている。
彼らは、「男子ハ拓地ニ従事シ、麻苧ヲ培養シ、以テ従来営ム所ノ製網ノ業ヲ婦女子ニ為サシム」(市史 第七巻二五四頁)ことを「着産ノ主眼」としていたので、開拓使でもこれに期待するところが大であったとみられる。この麻畑の予定地は、各地を調査して歩いた末に、「苗穂雁来二村西方雨竜通リトノ間」が適地とされた。これは十文字の『日記』に、十月一日に「ツイシカリ、水藩旧臣へ分割の義決ス」のことをさしている。しかしこの分割地は本庁一里方内が理由で取り消され、麻畑の開墾地は平岸に移されたようである。閏十月三日に十文字龍助と木村庄治が、「麻畑見分」に行った地は平岸である。十二月五日に至り、「監事と水沢二十五戸の事を決ス」と記されているが、ここに来て対雁から平岸へと入地先が変更となり、あわせて麻畑開墾も決定をみたようである。
一方、移住の準備はその後も着々と進められ、六月二十九日に坂本平九郎は札幌に向かい(私事願伺届 道文二〇三)、七月十三日には吉田元俶、木村庄治、木村長蔵、吉川多佐衛門、余目三之丞、伊藤勘助の六人(ほかに僕三人、女三人)が函館に到着している(諸届留 道文二〇八)。十二月に入地先が決定したことをうけ、札幌より函館に戻った坂本平九郎、木村長蔵、木村庄治の三人は十二月二十二日に青森に向け渡海している(私事願伺届 道文二〇二)。あとは翌春の北海道移住を待つばかりとなった。