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札幌への到着

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 開拓使から岩手、宮城などへ移民募集に派遣された広川信義大主典が、四年二月に水沢に入り人員の選定・除籍などの手続を行い、間もなく三班に分かれ水沢を出発する。第一班は一六戸五四人が二月二十六日、第二班一六戸五〇人が三月一日、第三班一五戸四二人が三月四日にそれぞれ出発している(市史 第七巻二〇〇頁)。合計四七戸、一四六人であるが史料により戸数、人数に少し相違がみられる。
 札幌到着は『仕上ケ御勘定帳』によると、麻畑人員として①二一人が二月二十五日、②一三三人が三月二十日、③三三人が四月二日となっている。合計一八七人であるが、水沢より出発した人々は②と③のみであろう。
 ところで移住してきた中で、もと伊達邦寧の旧臣で「跋渉魁首之人員」に入っていたものは実際どのくらいいただろうか。判明する限りでは一六人を数えている。この点で、「各盟ニ背キ渡航ノ念ナシ、其屈セスシテ止マサル者僅ニ六、七名ニ過ギス」(市史 第七巻二五四頁)との「平岸村設立ノ顚末」の記事には、少し誇大がみられる。さらに「跋渉魁首之人員」に入っていない、邦寧の旧臣も一一人みられる。旧主の不参加、百姓身分への編入などにより脱落者が相次いだにせよ、依然として二七人の旧臣が結束して移住を果たしていたことは、改めて注目されなければならない。二七人というのは十文字の『日記』にいう「水沢二十五戸」に近く、おそらく二五戸をめどに選定されたようである。ただ首唱者の中では藤田源四郎が移住に至らず、渡道して地所の選定・調査にあたった者も三人ほど移住に加わっていない。複雑な内情を抱えての旧臣層の移住であったことは確かである。
 以上の旧臣層のほかに、新たに農民が徴募されて加わった。水沢の周辺のほか、秋田県雄勝郡から加わった金山富蔵もいる(金山セイ 平岸開拓記)。合計六二戸で一村が形成され、当初は麻畑村と称されたが、間もなく五月に平岸村と改称になる。

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写真-14 伊達邦寧の旧臣が入植した平岸村(明治4年,北大図)