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白石村への入植

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 一行の入植地選定は十月八日以降に着手され、十一月二日に岩村通俊が「坂本(義広、少主典)・佐藤廓尓ヲ携へ、貫属移住地所見分」(公務摘要日誌)しており、この時に望月寒と呼ばれた地に決定をみたようである。十六日に『細大日記』によれば「貫属強壮之六拾五人」(『白石村移住以来保存ノ書類』では女性一〇人を含む六四人)が、石狩より札幌に入り本願寺管刹所で一泊する。翌日に月寒に入り、豊平にあった人夫小屋を拠点にして毎日、望月寒の入植地へ行き、雪積と寒風の中をおかして地割を行い、ひとまず五〇戸の小屋が十二月七日に完成した。小屋掛が済み十二月晦日までに石狩に残留の者を迎え、二〇七人が新天地で正月を過ごした。
 こうしていまの国道一二号の両側に沿い村落が姿を現わし、村名も郷里にちなみ白石村と命名され、十一月二十五日に「月寒村裏字モチキサツフ、更ニ白石村等相称候」(市史 第七巻二一三頁)と布達になった。翌五年にも五四戸の小屋が建設されたが、望月寒川流域の湿地帯は住居に不適で、一八戸が横丁通(現米里行啓通)に移転した。この年さらに石狩残留の人びとを加え、人数も三八〇人に達した。

図-2 白石村入植図 『奥羽盛衰見聞誌』下巻(白石市史資料)より作成。