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札幌会議の開催

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 会議の日程について、杉浦の日記の札幌滞在中の記事の中から関係する分を見てみよう。
五日(杉浦が)第二字過札幌庁エ達ス。岩村氏ノ邸に泊ス。次官殿はじめ着……。
六日夕刻松本旅宿エ、相越ス。
七日此日岩村西村エユキ調物アリテ欠席。会計出納不都合云々ニテ、次官殿より八木下厳責ヲ蒙ル。…
八日西村生エ御用談として相越出庁。今日岩村引込。夜西村土肥ノ両氏岩村生エ来ル。本日松本生次官エ行レシ処、昨日譴責ノ当処会計一条ニテ次官殿甚激怒之よし、松生(本欠カ)より西村承り候趣ニテ種々相談におよぶ。
九日…例刻出庁。本日次官殿左の一書差出…(書簡写略)…。欠席人中エ即刻相達し、岩村其外追々出庁ニテ評議アリ。此紛議ヲ生ル原因本府会議粗漏ヨリ生セし事と衆察ニ付、何れニも岩村生謝辞として被相越、事実陳述之上ニテ、尚次官会議ニ莅レザル儀に候ハヽ、我輩一同覚悟も有之段、詰合一同之見込ニ付、今夕岩村生次官宅エ被相越事ニ決ス。夜長谷部大山両氏入来今朝松本生入来此日前文之一条ニ因テ也。岩村次官エ被相越処逢ナシ。
十日朝長谷部大山方へ相越、夫より出庁。朝十字より岩村生次官エ相越過日ノ一書を取消シ、明十一日朝九字より次官殿宅ニおひて会議有之旨達しアリ。
十一日…今朝第九字より次官殿宅ニおいて会議アリ極夕終ル。
十二日…移病決(ママ)庁。井上入来公務ヲ談ツ。夕刻より長谷部大山旅宿エ相越ス。
十三日出庁。今日広川門野吉見中村(本宗同同)会議。…夕刻松本生ノ招ニ応ス、本府留滞の内話アリ。
十四日次官殿宅会議エ出席。来春次官殿帰札迄之間松本氏滞在之議決定、次官殿より口申達し有之。夜松本始め岩村(橋爪カ)夫より次官殿エユク。
十五日出庁…。
十六日出庁…。
十七日出庁。函館本庁営繕費外御入用費諸伺今日附札ニテ下ル。…
十八日…松本生エ暇乞相越。夜次官殿エ相越。…
十九日今朝第八字過出立……。
(杉浦家)

 これで見ると、会議は五年十月七日から十七日頃まで開かれている。その間調べものや対立などで全員が出席したのは少なかった。また黒田が出席しなかった九、十日は会議にならなかったと思われる。また十五日以降は、各地定額決定の指令を待っていて会議の日程からはずれる可能性も考えられる。
 会議出席者は、各支庁の上局を構成する主任官とその副官たちで、開拓幹事及びそれと同格の開拓使七等出仕以上のものたちと思われる。会議では出席者の多くから意見が発表されている。会議場は杉浦の日記に「出庁」「欠庁」とあるので、黒田や岩村の官邸ではなく、当時本庁舎として使用されていた仮庁(北四東一)を使用したと考えられる。しかし十一日と十四日は次官邸で行われた。
 会議の議題は、本庁や各支庁の次年度の定額金と事業計画の決定と開拓使の将来の方針についてである。また九日の黒田の書簡は、今まで松本十郎の『蝦夷藻屑紙』から引用されていたものと多少の字句の違いを除いて同じである。さらに十日の記事を見ると、『貫堂存稿』にあるような黒田次官の札幌不在をなじるような書簡があった可能性を示している。しかし会議の紛糾がその書簡や黒田と岩村の個人的または派閥的な対立などでないことは、前述の背景から明らかである。