明治三年(一八七〇)五月九日に、樺太専務としての開拓次官に就任した黒田清隆が、同年八月現地樺太に赴き、帰京した十月、その功を二〇年後に期して北海道の開拓に力を注ぐべきと建議したことは先述した(二章一節)。この中で、「移民ノ計数及器械ヲ精覈考究セシメ、其一定の法立ツニ及ンテハ鉱山舎密ノ業ニ精キ者ヲシテ金銀薬物ノ類ヲ考索セシメ、且ツ北海道樺太ノ海岸ヲ測量シテ要害ノ地ヲ検」するために、「風土適当スル国ヨリ開拓ニ長スル者ヲ雇」い入れることを要請していた(開拓使日誌)。すなわち外国人の雇用目的として、開拓の方針・方法を樹立するための移民や器械等の調査、具体的に開発すべき資源やその方法の研究調査、それに軍事的観点からの海岸測量を挙げている。
この建議に対して政府は十一月十七日黒田に海外出張を命じ、また同月二十九日三条右大臣より黒田に対し、建議の要旨を容認する六条の口達がなされている。その中に「開墾ニ長シ候外国人雇入ノ儀次官へ御委任ノ事」と、「開墾器械ハ米国へ注文可相成事」との二条が含まれていた。この達を受けた黒田はさらに十二月二日、雇用すべき外国人を「工作ニ長ズル者」「農業ニ長ズル者」の各一名とし、さらにその雇用ならびに開拓器械の購入にかかわる費用を、開拓使定額外とすることを申請してその許可を得ている。かくして四年一月四日に、黒田は留学生をともなってアメリカへ向け横浜を出帆したのである。