六年の秋になると開拓使庁舎、諸官邸などの建設工事が一段落した。その上七年に入ると、二月佐賀に江藤新平、島義勇らの兵乱が起こった。さらに六月琉球島民が台湾で殺害された事件で出兵の議が起こった。黒田清隆は台湾事件の問罪費として一〇万円を還納した。そのため六年に一四万二四一〇円あった官邸等新築修繕工事費は、七年には三五八一円一八銭一厘となった。したがって新規建設工事が着手されなかったため、工事に関係した一〇〇〇人を越す職分の人びとの外に四〇〇〇人を越す諸職工人夫らが帰国しはじめ、街は火の消えたように不景気になった。この頃の様子を伝える昔話には次のような話が残っている。当時家作料及び営業資本などを開拓使から借り、年賦償還していた商工業者たちは、家作の借入金の返済が滞ったばかりでなく、商売にも行き詰まった。そのために市中では逃亡するものが相次ぎ、市中各所に空家が生じた。残ったものも多くは飢え、山鼻村周辺の原にワラビを採り、あるいは小麦粉の残品に小豆を混ぜたものを常食とした。当時札幌本庁の主任官であった松本十郎は、市民を開拓使本庁舎官邸等の周囲に土塁を築く作業に従事させたり、札幌篠路間の米の運搬や官園内の草取りに従事させて食を与えた、等々。松本大判官の七年七月四日付の上申書には「札幌ノ戸数九三五戸ノ内、明屋一八一戸、普請屋一戸アリ。外ニ中川源左衛門職工土方繰入長屋二八戸ノ内明屋一五戸アリ」(河野常吉 札幌史料 道図)とある。