一般移民にとって次第に増大する生産物の販売は大きな問題であった。五年四月、官は札幌近傍の農産物消流のため、穀菽・馬鈴薯等の買上の旨を達した(河野常吉 札幌資料―開拓使時代・札幌県時代)。同年八月には札幌本庁管内各郡の農産物買上願を許可し、以後年々大小麦、大小豆、蕎麦などの価格を定めて買上げることとした。六年十月民事局は「管下拾四村追々開墾畑相増シ、菜種、麻、蕎麦、大小豆ノ類出作物、市中不融通ノ折柄買込ミ候モノモ少ク、村民一同難渋イタシ候ニ付」ということで、為換商店と木村万平店の二店を買入所に指定し、大小豆、大小麦、蕎麦、麻、粟、稗、菜種、藍、烟草の類を毎月三度ずつ相場をもって買入れさせる旨を各村に達した(部類抄録 二五、明治六年市在布達)。
上記の「市中不融通」は、札幌本庁舎完成に伴う不景気を指している。七年七月の札幌郡市在への達によれば、大豆(一石三円五〇銭)、小豆(同三円七五銭)、大麦(同一円七五銭)、小麦(同三円二五銭)、菜種(同三円)、麻(一貫目二円)の六品に限り上記代価で買上げた。その達の但書には、明年からは繭、小麦、麻の三品に限り買上げるので三品の蒔付けに精を出せ、とある。この外、七年以降小麦その他の農産物と米を交換する制度もあり、七年八月には小麦一石と玄米八斗四升四合の比率であった。しかしこの方法も、九年以降は小麦、大麦、菜種、大豆、麻苧、生繭の代金四分の一相当分以外は交換をとりやめることとした。これ以降も上記の基幹作物の買上制度は続くが、菜種、麻、繭、藍などの工芸作物の奨励は、官自らが加工過程に乗り出すことも加えて、とくに力が入れられた。