開拓使は、開拓遂行のため欧米技術を導入することとし、その一環として開拓に関する技術者、官吏等を養成するための学校設立が企画され、同じ理由によって女子を含む海外留学生が派遣された。
開拓使留学生の派遣は、明治四年黒田次官の米国出張に同行した第一陣七人を皮切りに、女子五人を含む三三人に及んだ。しかし五年八月の学制頒布により、これらはすべて文部省の管轄となり、多くは七年春までに帰国し、しかもその後北海道開拓に関係した者は少なく、当初の目的からみれば十分な成果をあげることはできなかった。
これとならんで、開拓使では技術者養成を目的とした学校設立が企画され、五年一月に黒田次官から正院に対して北海道に農業工業等の学校を取建てるが、とりあえずは東京に仮小学を設けることなどを伺い、正院からは中学校に列し、仮学校とするなどの指示があり、同年三月「開拓使仮学校規則」を設けて同校設置の目的が開拓技術者の養成にあること等を明示し、四月十五日に東京芝増上寺本坊に開校した。翌六年三月、同校はいったん閉鎖され、「開拓使仮学校則例」を定めた上、翌四月に生徒数を大幅に減少して再開校された。ついで八年には札幌移転が決定し、七月に札幌学校と改称し、八月に職員生徒は札幌に移って九月に開業式を挙げた。