前述のように、幕府御手作場開墾掛の大友亀太郎によって、慶応四年(一八六八)に鎮守妙見堂として創置されたのが本寺の起源である。その後明治四年に開拓使の許可を得て「建増一宇創立、休泊所と称」(本庁上申録 道文五四六三)した。十一年二月、石狩の金龍庵(現金龍寺)は、妙見堂を「拙庵出張所ト仕、檀中教諭尚死亡葬祭仕度」(寺院教導書類 道文三一二五)と伺い出たが、結果は明らかではない。十四年七月に金龍寺末の妙見山本龍寺(日蓮宗)として公認された。檀徒人員二〇四人であった。なお、妙見堂建立時は神仏混淆の時代で、同堂は産土神的な信仰も得ていたが、これはこの後も長く続き、毎年八月に祭典を執行して今日に至っている。