W・S・クラークの依頼で農学校一・二期生に洗礼を授けたM・C・ハリスは、そのために十・十一年の両年、札幌を訪れた。そして彼らから生涯にわたる尊敬と信頼をかち得ることになった。十一年にハリスが東京に転じたあとは、W・C・デヴィソンが函館に着任し、札幌への巡回も行った。札幌農学校一・二期生の大部分は、ハリスに導かれてメソヂスト監督教会に入会しており、デヴィソンは彼らが将来とも同教会に属するものと考えていた。
デヴィソンは十三年に来札して、一・二期生らが会堂を購入するための費用を融通しようと彼らに伝えた。しかし、内村鑑三によれば、九月の来札のときデヴィソンは、新しい教会の設立計画には賛意を示さずに帰ったという(内村鑑三 余はいかにしてキリスト信徒となりしか)。ともあれデヴィソンは翌十四年にその宣教師報告で、函館や福山(松前)とともに札幌も好ましい発展をなしつつあると述べている。また翌十五年には、信徒たちは経済的な独立をめざす最も高邁な精神を抱いていると報告している。彼としては、ここに同派の教会設立が必要であると考えていた。十四年頃のキリスト教界の報道記事でも、例えば『七一雑報』が、後述する最初の会堂を「メソヂスト教会」(六巻四二号)と記すなど、専ら同派所属の教会とみなしていた。
しかし、事態はデヴィソンの期待とは別に展開し、札幌基督教会は教派から独立して設立された。一・二期生の大半の退会によってメソヂスト監督教会による伝道活動は中断し、二十三年に同派の教会員によって組会が組織されるまで、札幌では教会設立につながる活動は起こされなかった。ただ、デヴィソンの後任のL・W・スクワィアは、札幌基督教会の設立によって札幌の同派の教会は解散したとし、「これらの若者はメソジズムにとっては損失であるが、キリスト教にとっては損失ではない」(大山綱夫 札幌バンドについて)と報告している。その後も同派と札幌基督教会との協力関係は続き、十七年十一月三十日の洗礼式にはスクワィア、翌十八年八月九日の洗礼式にはR・S・マークレイが司式をしている。