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フォーリー神父の巡回

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 幕末から明治維新後にかけて、カトリック教会の宣教(布教)は、九州地方の復活キリシタンへの対応に力を注ぎ、全国的な活動はプロテスタント諸教派に一歩を譲ったが、北海道では函館が重要な伝道の拠点となり、ここから札幌などへの巡回が行われた。北海道の布教はパリ外国宣教会によって担われたが、最初に札幌を訪れたのも、フランス人の司祭、A・プティエであった。彼は十三年に札幌に二週間滞在した。当時札幌には材木商の大国元助ほか一、二戸のカトリック教徒がいたといわれるが、大国家以外の人びとの氏名は確認されていない。この大国宅が、プティエそして次のJ・U・フォーリーの当初の拠点となった。

写真-9 フォーリー

 フォーリーは函館を根拠地としながら、十六年正式に北海道全域と青森県を担当する巡回布教師となったが、それ以前の十四年、クリスマス近くに札幌に赴き滞在した。翌年集会所を南四条東一丁目の借家に移し仮会堂とした。やがてこれが第一歩となって、札幌天主公教会(現カトリック北一条教会)の設立につながっていった。フォーリーは翌十五年再び来札し、クリスマス当日、三人に洗礼を授けた。さらに翌十六年の復活祭(イースター)には五人の受洗者があった。受洗に際しての代父あるいは代母には、ほとんど大国元助・トメ夫妻がなっている。まだ司祭の定住していない集会所信徒の中心に大国夫妻がなっていたからである。大国はまた、集会のたびに十字架のついた幟を持って街のなかを歩いては人集めに励んだという。
 その後仮会堂は十八年に南二条西六丁目の白官邸に移り、翌十九年に南二条東四丁目一番地に移ったが、諸書によって移転時期や場所とも異説が多い。所在地はおおむね大通以南、創成川畔以東を転々としているが、その位置を正確に確認することは難しい(林恒衛 札幌市に於ける天主公教会・神の愛、われらに満ちて)。
 この間、フォーリーは精力的に全道を巡回していた。彼は伝道のかたわら趣味の植物採集を続けていたことでも有名であった。採集した植物標本は欧米や日本国内の研究者に送られ、彼の伝道費用や会堂建築の費用に変じた。