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開拓使一〇年計画の満期

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 明治五年(一八七二)一月より一〇カ年間総計一〇〇〇万円の定額をもってスタートした、いわゆる開拓使一〇年計画は、明治十四年をもって完了する。これを目前にした十三年十月二十八日大蔵省は次のような上申書を太政官に提出している。一〇年間の定額等支給の「年限ノ義ハ来ル十四年十二月迄ニテ其期相満申候、就テハ収入ノ納受ニ係ル金額及ヒ製造諸費ノ作業規程ニ拠ルモノノ類、十四年度上半年分ノ区分ハ勿論同年度下半年分定額ノ如キモ、其時ニ臨ミ実地適応之御処分可相成儀ト存候得共、最早来十四年度予算調理ノ期節モ間近ニ付、早々何分ノ義御達相成候様致度此段及上申候也」(公文録 大蔵省)というもので、一〇年計画の満了を十四年十二月とし、そのため十四年度の上半期はもちろん下半期を含めて、予算編成上の目途の指示を仰いでいるのである。
 ここで問題なのは、当時の会計年度は七月開始の翌年六月限りであったので、十四年度予算は、十四年七月より十二月までが上半期、十五年一月より六月までが下半期となり、年度途中に開拓使定額の支給が満期となる。そのため大蔵省は十四年度の予算編成に困惑していたのである。この上申に対する返答はなく、大蔵省は十四年一月十一日さらに編成時期の切迫をもって、重ねて指令を促していた。
 三月三十日に至り、この大蔵省の要請に関して会計検査院は以下のような見解を述べている。「抑モ該使定額ハ兼テ令達ノ通十四年度内七ケ月間即チ十五年一月迄ヲ以テ其期限完了候ニ付、同年二月已降六月迄ノ経費ヲ併セテ全十四年度ノ定額御決定ヲ要スル義ニ有之」(同前)と、まず定額満期を大蔵省の見解と異なり十五年一月としている。ここでは十五年一月とする根拠は何も示されていないが、別に開拓使定額は「十四年度十五年六月を終期とすを以て其期終了せんとす、但し政費節減の結果、定額支給の期限短縮せられて十五年一月となれり」(明治天皇紀 五)とあり、満期は暦年ではなく会計年度として、さらに十四年二月一日に六省一使に令達した経費節減(開拓使節減は一〇万円)を定額支給期限の短縮と見ることによって導かれた年月としている。
 ともあれ十四年度の予算編成は、したがって十四年七月より十五年一月までの七カ月分と、十五年二月より六月の五カ月分とを合したものとなり、会計検査院はその編成の手順を「十四年度内十五年二月已降ノ経費ハ十五年度ニ於ル定額ノ目途御概定ノ上、其方法ニ拠リ金額御支給相成候方実際条理共ニ宜シキヲ得候訳と被考候」と、まず十五年度の予算編成方法の概略を確定し、それに基づき一〇年計画定額からはみ出ている、十四年度下期に当たる十五年二月以降五カ月分の経費を決定するのが最も妥当であろうと説いている。そこで十五年度の予算編成のおおむねの規準は、十二年度の実収支から推計し、支出経費と収入とは同額とみることが可能であろうとして、その予定収入額をもって十五年度の支出経費(定額)と想定する。そしてその想定支出経費の月割により、十四年度の下期に当たる十五年二月以降の五カ月分の定額を決定しようとするものであった。(なお十四年度上期に当たる十四年七月より十五年一月までの七カ月分は、一〇年計画定額中の四五万一〇〇〇円としている)。
 この会計検査院の考え方は、十五年度以降の北海道経営は道内における実収入で賄えるという基本的観点に立っているのであり、それが後の三県時代の財政にも踏襲されていくのである。ただこの時点では大蔵省も会計検査院も、一〇年計画満期年次の北海道経営費について論じているのであって、その本道経営を担当してきた開拓使の定額満期後の存否については、なんらふれているわけではない。