一〇年計画の定額満期を迎えて、上述の如き満期と以後とにかかわる北海道経営費の論議がなされていたが、より本質的問題も提起されてきた。それは定額満期を機に開拓使を廃止しようとする動きである。十四年に入り、世上の国会開設の論が盛んとなるや、政府部内でも立憲制に基づく国政の考究は一層活発となっていた。その中心に右大臣の岩倉具視がいた。その岩倉自身が「是の歳五月に至り、自らは専ら開拓使廃止の件を担当し、其の廟謨を決し国是を定むるの件は、之れを太政大臣・左大臣の〓掌に委」ねたとある(明治天皇紀 五)。一時なりとも国政の最重要案件から手を引き、廃使の方策に専念するというのであるが、その背景はつまびらかでない。
他方黒田長官の当時の考えは、例えば八月中に在京の近衛都督嘉彰親王が北海道・東北巡幸供奉中の左大臣熾仁親王にあてた書簡によってみると、「開拓長官黒田清隆、三四箇年の延期を申請して所期の事業を完成せん心算なり」(同前)と報じている。確かに一〇年計画に基づいて遂行されてきた北海道の開発は、世上のみならず黒田自身からみても立ち遅れていた。十年十月黒田は管内に布達して「当使経費ノ定額ハ十年ヲ以テ期トシ限内既ニ六年ヲ経タリ、今ヨリ四年ノ後ハ政府ノ支出ヲ仰カス管内ノ歳収ヲ以一切ノ経費ヲ弁スヘキハ嚮ニ屢諭達セシ所ニシテ、予メ将来ノ経費ヲ通算シ前途ノ目的ヲ定ヘキハ勿論ナレハ、……四年ノ後果シテ得ル所失フ所ヲ償フニ足ルヤ否ヤヲ精査シ其目的ヲ申出ヘシ」(布令類聚 上 物産)と、目標達成のために叱咤激励していたが、しかしなおその完成を見ずに満期を迎えようとしていた。黒田はこれまでの、自ら統括してきた開拓使の努力と投下した莫大な国家資本を泡沫とすることなく、そして国益を起こすためには、なお開拓使存置の延長を願わざるを得なかったのである。
しかしながら、「廟議是の機を以て開拓使を廃し置県の挙を断行せんとす、右大臣岩倉具視主として其の考査を担当し、遂に実行することに決せるを以て、五六月の交、参議寺島宗則を以て開拓長官黒田清隆に之れを告ぐ、清隆、之れを己れに諮らざりしを深く憤るが如くなりしかども、遂に奉命するに至れり」(明治天皇紀 五)とあるように、十四年五、六月に黒田の意志に反する開拓使の廃止が政府内でひそかに諮られ、そして六月中に心ならずも黒田も承服させられて、ここに廃使は内決するに至ったのである。