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黒田開拓長官の辞職

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 佐々木高行の手記によると、明治天皇は黒田を評して「黒田[清隆]は動もすれば大臣を強要して我が事を行はんとする傾あり、韓信・彭越の徒に比すべきか」「又自の言行はれざる時は病と称して出仕せざるは、黒田の恆にして」(明治天皇紀 五)と密に語ったという。一〇年計画の満期を迎え、開拓使の存続は容認されず、それにかわる開拓使官有物払下も否定された黒田は、果たして「其の説の行はれざるを知り、快々として楽まず、病を称して朝せず」(同前)の状態にあった。
 また安田らも、出願した払下げの疑惑を解き、身の証を立て、払下げを許可した政府の施策は不当でないことの事由を天下に明示すべきとして、自分らが出願した払下物件をすべて公売に付すことを十四年十一月要請し、最後の抵抗をみせている。それは公売に応じて払下出願をする者があれば、必ず原価を調査するであろうし、また購入後の営業上の組織・運用・経理等を予め精査するであろうから、それによって安田らの払下条件は不条理・不相当のものでないことが理解され、天下の疑惑は一掃されるであろうと考えたからである。そして黒田はこの安田らの具陳を添えて、太政官に公売の伺書を提出している。しかしこれに対して政府は「伺ノ趣ハ諸工場ノ内尚官ニ於テ保続ヲ要スルモノアルヲ以テ払下ケ取消候義ニ付、主務ノ省へ引渡シ又ハ新置ノ県ニ於テ管理スル等ノ区分取調可伺出事」(公文録 開拓使)と、すでに旧開拓使事務・事業の他省府県への移管処分が決定された後の、十五年四月二十四日になってようやく回答しているのであった。
 そして十四年十二月二十八日に至り、黒田はついに次のような辞表を提出した。
清隆譾劣ノ身ヲ以テ非常ノ恩遇ヲ蒙リ重任ヲ承乏シ夙夜孜々犬馬ノ力ヲ效シ以テ朝廷付託ノ意ニ副ハンコトヲ図レリ、然ルニ近来脳病ニ罹リ且耳痛ヲ患ヘ種々治療を施スト雖モ未タ全愈ニ至ラス、動モスレハ屏居養痾為ニ常務ヲ欠キ曠職ノ責ヲ免レサルヲ恐ル、因テ願クハ皇恩寛待ヲ蒙リ本官兼官ヲ免セラレ徐ニ病ヲ林下ニ養フヲ得セシメラレンコトヲ恐悚悃願ノ至ニ任フルナシ、伏テ乞諒照ヲ垂レ採允ヲ賜へ
(公文録 官吏進退)

と、本官・兼官すべての解職を願い出た。これに対し政府は十五年一月十一日、本官の陸軍中将の辞職は認めず、兼官の参議・開拓長官の辞表を受理すると共に、かわって兼官として内閣顧問(年俸四〇〇〇円)に任命した。同時に黒田の後任として、陸軍中将兼参議農商務卿議定官西郷従道に、さらに開拓長官の兼任を命じた。なお内閣顧問とは明治六年に置かれた太政官内の非常置の職で、国事の評議に参与するものとされていたが、内実は時の政府に不満をもつ要人を慰留するために設けられたもので、六年の島津久光、九年の木戸孝允についで黒田は三人目の内閣顧問であった。
 この黒田辞職をめぐる政府の動向を、「初め参議伊藤博文等清隆の朝を去るを憂ひ、之れを農商務卿に転じ、以て開拓使経営事業を管せしめんとす、異議ありて果さず、仍りて従道等之れを内閣顧問に擬す、太政大臣三条実美等内閣顧問の職責なきの故を以て、清隆の肯ぜざらんことを憂ふ、然るに清隆聖旨に接するに及び、唯々として之れを諾す、是に於て衆大に安んず」(明治天皇紀 五)と記している。