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衣服の改良

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 開拓使では、食物や住宅改良とともに寒冷地に適した衣服の改良を奨励した。札幌市中や村に入植した移民の多くは、奥羽・北越の雪国出身者が多かったので、大体が故郷の慣習を持ち込んで生活していた。特にこれといって防寒方法を持ち合わせていなかった。官吏すら羽織・筒袖姿で、外出の時は蒿沓(つまご)をはいて、毛布をかぶるのを例としていた。開拓使は実用に適した防寒衣服として、北海道に豊富な毛皮を利用することを奨励した。札幌でも鹿・兎の毛皮が売られ、平岸村でも実際に用いている(平岸村開拓史)。また衣服の自給のため養蚕を奨励して製糸・機織を盛んにしたり、また麻を栽培させ、洋風の衣料に改善するよう力を注ぎ、さらに官吏に帽子を用いることまで訓諭している。洋服の導入は官吏達からであった。その洋裁はといえば、八年東京出張所裁縫所が札幌本庁に引き継がれ、裁縫師島田兼吉とともに札幌学校付属裁縫所として開校したのに始まる。生徒の制服や官吏の背広・礼服、さらには一般の洋服仕立ても行い、男女修行生に裁縫を教授した。当時の裁縫代価は、背広三つぞろえで一円五〇銭五厘、マント一円一二銭五厘、シャツ二五銭、礼服は仕立形により一定せずというぐあいに大体において高価であった。このため、下級官吏は礼服仕立代を貸与され、月賦で返済した。裁縫師兼吉は十一年開拓使を辞し、のち洋裁店を開業し、一手に洋服の仕立てを引き受け、また技術を広めた(札幌事始 さっぽろ文庫7)。