このような生命維持に必要な生活基盤の確保と同時併行して行われたのが、日本式教育である。十年、製網所内に教育所が開設され、日本語教育を中心としたイロハ習字・綴字・単語等の習熟が行われた。はじめアイヌ子弟六〇人中わずか二〇人しか収容できなかったが、十一年、小学校に認可され、さらに翌年増築されて全員を収容した。しかし教育内容は、学科に誦読・書取・習字・体操、上学年のみソロバン・地理等があったが一般小学校とはおのずと異なり、目標は日常生活に役立つ「俗文」と「耕漁養蚕」におかれた。
開拓使では、はじめアイヌ児童を学校へ登校させようと「恩典」、すなわち扶助料のうちから学用品・昼食・菓子・衣類等を登校する児童に支給したが、十五年以後、将来見込みのありそうな児童のみに限定すると、登校する児童は激減した。十七年以降、父母が漁業のために石狩河口方面に移転するにともない、減少は一層激しくなり、十九年には一人のアイヌ児童も在校しなくなった。