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公娼制度の確立

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 「解放令」以後開拓使は、芸娼妓や貸座敷に関する規則類を矢継ぎ早に達して、開拓使の遊廓政策すなわち公娼制度を確立させた。開拓使は、他府県と同様基本的には公娼制度の持つ矛盾点すなわち芸娼妓や貸座敷を営むことを「正業」ではないとしながらも、それを「職業」と公認し、高額な税を課すという方向に変わりはなかった。次に開拓使札幌本庁の場合、公娼制度を確立に導いた芸娼妓の取扱方法について『布令類聚』からみてみよう。
①名称 従来の「遊女屋」を貸座敷、酌取を芸妓、飯盛を娼妓と改称。しかし実態は旧来のままであった。
②芸妓と娼妓の区別 従来、芸妓と娼妓の所業において兼ねる場合が多かったのに対し、芸妓と娼妓の所業を分離区別し、紛らわしい所業を禁止し、もし芸妓が娼妓と紛らわしい所業をした場合娼妓に編入。
③芸妓・娼妓の稼働場所 芸妓は自宅または貸座敷その他に寄寓が自由に対し、娼妓は貸座敷内に限定。
④娼妓の検梅制度 梅毒院での定期的検診を義務づけ、梅毒院から鑑札を受けることとした。最初五日ごとの検診であったが、十年から毎週土曜日ごととした。この費用は娼妓の積金、のちの賦金で賄われた。
⑤営業免許鑑札制度 芸娼妓ともに戸主の奥印をもって営業免許の鑑札を受け、貸与・借受は禁止。
⑥税金 最初娼妓一人月五〇銭ずつ戸主より積金を差出し、臨時経費にあてることとした。十年鑑札料として芸妓七五銭、娼妓五〇銭としたが、同年芸娼妓とも税金五〇銭とした。十三年芸妓は芸妓税一円、娼妓は賦金一円に改正した。

 以上のように、娼妓は貸座敷業者の管理下におかれ、住居、稼働場所を指定され、定期的検梅を受けることが義務づけられていた。しかも、芸娼妓が支払う税金では、芸妓の場合の芸妓税が地方税の雑種の款に分類されたのに対し、娼妓の場合のそれは十三年以降賦金と称され、内務・大蔵両省へ届出を必要とする地方税の一種となった(十二年)。これは地方財政上でも大きな位置を占めるようになっていた。二十一年の札幌の場合でも、賦金を含む地方税合計が五四四一円六六銭六厘に対し、うち貸座敷業と娼妓の納める賦金合計は、二四〇二円七五銭六厘にのぼっている(明治二十一年札幌区役所統計概表)。この額は、地方税全体の四四パーセントに相当することになる。しかも、娼妓等の納める賦金の使途は、梅毒院費をはじめ、警察探偵費、内務省への納入金などとなっており、国家財政が公娼制度によって支えられている面は少なくなかったといえる。