札幌の市街は豊平川の扇状地の上に形成されているため、札幌の人びとは毎年のごとくくりかえされる水害に悩まされた。この時期のおもな水害をみてみると、五年、六年、九年、十年、十二年、十四年、十五年という具合に頻繁におこっている。このうち六年の場合は四月の融雪の水が鴨々川の水門を破ったために市中にあふれたもので、大事にはいたらなかったらしい(開拓使公文録 道文五五三三)。しかし十五年の場合は、四月、五月と二度も暴風雨に見舞われている。四月二十八日午後より札幌地方を襲った暴風雨は、鴨々川水門を破壊して、創成・胆振両川があふれた。このため、鴨々川付近の南四条、五条通では流失家屋六戸、大破八戸、小破五戸におよび、南一条、二条通でも浸水家屋一〇戸、穀物貨財の損害高は八九七円余にのぼった。また、この時の洪水で発寒川が欠壊し、琴似村民中田儀右衛門外四人が家屋もろとも流されそうになったが、村民の必死の努力で救出されるといった一幕もあった(豊平川洪水之書類綴 道文七三四四)。
このように頻繁に繰り返される水害のために開拓使では、豊平川の堤防工事に力を注がなければならなかった(第二章参照)。