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書画骨董会

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 この当時、いわゆる教養人の間で文化サロン的な集まりである書画骨董会がしばしば開かれていた。いまのところ札幌関係では明治五年七月十一日、十文字龍助の『日記』(市史 第六巻)に次のように記されているのが初出である。
白野夏雲が招に赴く、夏雲亡友某が為に毎歳本日を以書画の会を設くると云、画工権藤外壱人、其他中村中田小功力相会す、杯上揮筆す、夏雲竹を写す、風致あり話て帰る。

 白野はこの年開拓使九等出仕に任ぜられ、五月に札幌詰となっている。なお「亡友」とは、白野の旧主で幕府の外国貿易取調掛などをつとめた岩瀬忠震が文久元年(一八六一)七月十一日に死去しており、おそらく岩瀬のことであろう。
 また当時総代人であった石川正蔵の『公私諸向日誌簿』十六年十一月十一日の項には、「東京庵ニ於テ書画会有之、催主鈴木氏ヨリ依頼ニテ幹事ハ自分工藤蒼海三氏也」と記されている。さらに『函館新聞』には十七年十月七日に札幌で「琴棊書画の雅集」の催行された記事が掲載されているが、それによるとこの会は毎年一、二回ずつ開催されてきており、本年はさらに俳諧の連中も加わったことを伝え、内容は「各室に陳列せし骨董若くは新古書画を品評杯し、又揮亳席には小蟹月真金城等の諸先生及び東海道人の曲筆等もありて之を乞ふものいと多く、俳諧囲碁の席も其道の人々何れも席に充ちたり、楼上は清楽の席なりしが、男女二十名斗りにて木琴提琴笛蛇皮線等の合奏はいと興多かりし」(十一月八日付)とあって、かなり盛会であったことがみてとれる。
 これらは文化サロンであって、文化運動とはいえない。しかしこの種の会は次編の時代にはより盛大となって、文化運動を産み出すひとつの核となったものと思われる。