西郷・山県の殖民局案は事業管理局に代わるべきもので、上述したように全道帰一の方略をもって、殖民興産の事業をすべて統轄する機関としていた。その組織は「別紙一号ニ詳記スルカ如シ」とあるが、それが本史料で略されているゆえにつまびらかでない。ただ建議本文中に、この殖民局は内務省の管下にあり、長官は二等官と記されている。この長官の権限の問題で、特に存置される三県とのかかわりについて、長官は「三県ニ対シ主管ノ事務ヲ令達スルヲ得、且三県令ヲ兼ネ、其僚属ノ如キモ亦交互適宜ニ兼任セシメ」とあって、三県への令達、局長の県令兼任、また局・三県官吏の相互兼任をも掌理しうる権限を有するものとされている。これによって「該局ト地方庁ト交渉ノ事務ヲシテ撞着阻塞ノ患ナク円滑疏通ノ便ヲ得セシ」め、また「交渉ノ事務酌量シ冗費ヲ節減」することを意図している。
なお三県に令達しうる局の「主管ノ事務」とは、建議本文中にはうかがえないが、後日この両卿建議を批判した金子の復命書中に、「其政務中拓地、殖民、山林、原野、土木及ビ漁猟ノ六件ヲシテ、殖民局ニ附属セシムル」とあるのがそれであろう。この局の財政も「別紙二号」に詳記されているようであるが不明であり、ただ十七年度歳出予算中の殖民局設置に直接関係する計画費額を通算すると、金一三四万七三六〇余円と記している。この殖民局の設置場所として両卿は、移住の便すでに備わり民業も漸く起これる札幌から一歩進めて、全道の中央に位置して四至交通の便を得るべき石狩国上川郡を想定していた。
最後に金子の殖民局案をみてみよう。金子は北海道の施政の現状を分析した結果、一大改革の断行を説く。その立場から、西郷・山県の、県の権限と事務を減縮し、逆に従来の事業管理局の権限と事務を拡大強化して殖民局とする案に対し、それでは県は名のみで県令は郡長に異ならずして有害無益などと、徹底的に批判している。そして根本的に三県一局制を廃して、新たに総轄的な殖民局の設置を主張しているのであるが、しかしその組織等について具体的に触れるところはない。
ただ、縷縷言及している一件は、殖民局長官の立場についてであった。それは新たに殖民局を置くに当たり、その官吏は従来の県官・管理局員が継続採用されるのは必至であるとし、「自然、旧来ノ情実ニ制セラレ、多少新規ノ改革ヲ決行スルニ、躊躇センコト、疑ヲ容レザル」ところであり、のみならず「仮令ヒ英邁果断ノ人材ヲ以テ殖民局長官トナストモ、開拓使以来ノ情実ヲ破毀シ、更ニ断行主義ヲ以テ、之ヲ決行スルハ、独リ困難ノ事情アルノミナラズ、蓋シ亦、期望スベカラザルモノナリ」と断言している。そこで「今日我政府ニシテ、殖民局ヲ設置シ、以テ北海道ノ政務ヲ一新セントスルニハ、先ツ才学アル人士ヲ挙ゲテ、殖民局長官トナシ、之ニ北海道政務ノ専権ヲ与ヘ、又殖民監査官ヲ置キ、各省ヨリ適当ナル人物ヲ抜擢シテ、之ヲ兼任セシメ、以テ殖民局ノ政務ニ、参与セシムルニ在リ」と進言している。金子にとって北海道政務の最大の障害は、旧開拓使官僚であると認識していた。そのため才学の士の長官選任と、長官への専決権付与と、そして長官の補佐監督としての監査官設置をもって、殖民局組織の中核とすべきと考えていたのであった。