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月寒村の軍都への歩み

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 月寒村は現在の広島町まで含む広大な村域をもっていたが、二十七年二月に広島村に戸長役場が設置され分離となった。この時期月寒村は、厚別(あしりべつ)と呼ばれた清田・平岡、焼山と呼ぼれた西岡の開拓が進んでいった。厚別には二十年頃には四〇戸、旅人宿も二軒あったという(函館新聞 二十年一月二十三日付)。二十三年一月には月寒尋常小学校厚別分校も設置された(二十五年に広島村大曲に移転)。二十八年に用水路がつくられ、清田米の産地となっていく。
 西岡は二十九年六月十八日に、月寒官林二六六万三〇〇〇坪が解除となり、厚別、羊ヶ丘、澄川などの諸地域と共に開拓に着手される。三十二年には一〇〇余戸あり、月寒尋常小学校の分校の設立も計画されていた(道毎日 三十二年四月六日付)。
 月寒村は一農村にすぎなかったが、二十九年に第七師団の設置が決まり、軍都としての歩みをたどっていくようになる。第七師団は当初平岸村に設置の予定であったが、土地買上げをねらった土地投機で地価が高騰したために、月寒村に変更になったものである。二十九年十二月一日に入営式が行われ、歩兵、砲兵、工兵の独立大隊が入り、三十二年十月二十八日から歩兵第二十五連隊となり、〝軍都月寒〟と歩みをともにするようになる。月寒村には、これにともない商工業者も店を開くようになり、豊平村にも影響が波及していった。

写真-1 月寒村に設置された第七師団歩兵第二十五連隊の建物
(『東宮殿下行啓記念写真帖』より)