西岡は二十九年六月十八日に、月寒官林二六六万三〇〇〇坪が解除となり、厚別、羊ヶ丘、澄川などの諸地域と共に開拓に着手される。三十二年には一〇〇余戸あり、月寒尋常小学校の分校の設立も計画されていた(道毎日 三十二年四月六日付)。
月寒村は一農村にすぎなかったが、二十九年に第七師団の設置が決まり、軍都としての歩みをたどっていくようになる。第七師団は当初平岸村に設置の予定であったが、土地買上げをねらった土地投機で地価が高騰したために、月寒村に変更になったものである。二十九年十二月一日に入営式が行われ、歩兵、砲兵、工兵の独立大隊が入り、三十二年十月二十八日から歩兵第二十五連隊となり、〝軍都月寒〟と歩みをともにするようになる。月寒村には、これにともない商工業者も店を開くようになり、豊平村にも影響が波及していった。
写真-1 月寒村に設置された第七師団歩兵第二十五連隊の建物
(『東宮殿下行啓記念写真帖』より)