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興産社農場と藍作

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 興産社農場は十四年十二月に阿部興人が篠路村に二四〇万坪の地所払下を出願し、翌十五年四月に滝本五郎などが入地して開墾したことに始まる。興産社は資本金一万八〇〇円、本社を徳島県名東郡塀裏町(現徳島市)におき篠路村を出張所とし、主に藍の作付を目的にしていた。徳島県は阿波藍の特産地であったが、肥料となる北海道の鰊粕(にしんかす)が高騰していた。そのために直接北海道で藍作を試みることにしたのである。
 十六年に初めて五反歩を試植し成功を収めたので、十七年には六町歩にひろげ、以降年々作付面積が拡大されていった。払下地も二十一年七月までに悉皆開墾され、また別に十八年十二月に二三〇万坪、二十三年に二五三万坪の貸付を受け、農場地は拡大の一途をたどっていった。これも藍作の順調な成功によるが、興産社は二十一年四月に資本金を五万円に増資して本社も篠路村に移し、道庁から利子補給を受ける保護会社となり事業の拡張にも目ざましいものがあった。さらに二十二年八月に札幌桑園内に藍製造場を新設し(九月に本社を桑園の北四条西一四丁目に移し篠路を支社に変更)、蒅藍(すくも)の製造にも着手していった。しかし三十年から製造は中止され、本社は再び篠路村に移され開墾事業のみの農場に変更となり、藍の作付も縮小され米作を主とする小作農場に変わっていく。
 興産社農場では十七年に直接経営から小作経営となり、そのため主に藍作経験のある徳島県から小作人が招致された。小作戸数は三十年に一〇〇戸を超え、三十五年には一二五戸に達している。三十五年の農場の反別は第一農場八四八町歩、第二農場(現石狩新道の東側)は一六〇町歩あり、その他林檎園(りんごえん)、付属地を合わせると一〇一二町歩に達し(殖民公報 第八号)、札幌市域の農場において面積では前田農場に劣るが、小作戸数や農地面積でははるかにしのぐもっとも大規模な農場であった。農場は三十八年以降所有者が度々かわり、四十五年四月から三菱財閥の岩崎家の所有する拓北農場となった。