さらに二十五年になると、教会の体制にも難問が生じた。空知教会の伝道に当たっていた中江汪が当別への自給伝道を志して転じ、大島正健は札幌農学校教授の公務が多忙であるとの理由で牧師を辞職した。そのうえ竹内伝道師も同志社への再度の勉学を志して辞任した。このため、一時中江汪が牧師不在期間、教務の責任を負った。この年は五月に札幌の大火があって、同教会の牧会・伝道ともに困難が募った。すでに苗穂村の伝道を廃止し、市内講義所も閉鎖した。日曜の朝夕の礼拝出席者も七〇人前後となった。老婦人会以外の婦人会も休会した。市来知・岩見沢への伝道も手が回らなくなり、それらを組合教会の牧師に委ねることになった。二十六年一月に同教会十年期祝会を催し、牧師に同志社出身の四方素(しかたすなお)を招くことが出来たが、この年大島正健は同志社に招かれ京都に去った。
十年期祝賀に当たって刊行した同教会史では次のことが、札幌基督教会の沈滞の原因であるとしている。
此頃より札幌を中心とし北海道全体に保守的反動の勢漸く起り、廿五年に入りて益々熾にして、国家主義の論者若くは辞を国家主(義欠)者に籍る論者の、基督教を攻撃する声甚だ高くなりしかが、多少道を求めんと志すものも逡巡して敢て基督教の門に入らず、況んや全く志なきものに於てをや
(札幌基督教会歴史)
さらに同書では、二十三年段階でまだみられなかった国家主義の影響が、ここへ来て札幌でも顕著となった、加えて諸教派(一致教会、美以教会、聖公会)の教会設立が札幌基督教会の教勢の減退に拍車をかけたという。