盂蘭盆会の景況を二十四年にみると、この年の八月二十日は、旧暦の七月十六日で「戸毎に休業し丁稚は薮入りおさんも宿下り、娘や小児は綾羅錦繡に飾り立て、今日を限りと遊び暮らせり(中略)、寺詣での婆さん後生大事と年にも似合はず若飾(わかづくり)に洒落た気で孫ども連れて御説教に有難涙に暮るるも可笑し、宿下りの丁稚おさんが一年中の愉快と此の日を晴気(はれき)と林檎に腹を膨らすもあり」(北海道毎日新聞 二十四年八月二十二日付)と描写し、さらに人出による商店の繁昌を記している。
当時の区内の盆踊りは、もっぱら成田山新栄寺境内で行われ、「二三ケ所に高櫓を設け笛太鼓にて囃立つのを、数多の男女環状となりて踊ることなるが」(同前 二十一年八月十三日付)風儀はよくないと記している。同所における盆踊りは、二十八年に「事節柄衛生上及び風紀に関係あればとて」(同前 八月三十日付)認可されず、境内を追われた者は豊平山鼻辺で盆踊りを行った。
村落部では、二十四年八月十九日琴似村の日登寺で、盂蘭盆会の行事として亘理伊達家の祖伊達成実公の祭典をあげ、余興に花相撲、撃剣、煙火などを催し、翌日に仏教演説、その翌日に施餓鬼をなした。また山口村では若連中の主催で盆踊り(広島踊り)を行ったという。この時期集落それぞれがその歴史、成立事情をふまえて、特色ある行事をくり広げていたようである。