札幌を北海道の行政府と定め、都市建設を開始して以来約二〇年を経過した明治二十年代の札幌は、古参住民も新住民も社会を共有する人びとがタテのつながりとは別のヨコのつながりを希求してさまざまな社会的活動を開始した。それは、何々会、何々研究会、あるいは何々倶楽部といった結社団体として呱呱(ここ)の声をあげ、次第に札幌の人びとの生活のなかになくてはならない存在として定着していった。しかもそれらの団体は、特定の目的のためにきわめて自由な発想のもとに意識的に組織され、共通の目的・関心をもって札幌はもとより地方人にまで喧伝された。その大きな媒介役となったのが明治二十年(一八八七)に創刊された『北海新聞』とその後身の『北海道毎日新聞』であった。新聞は、当時最大のマスメディアとして社会と社会をつなぐパイプでもあった。
たとえば、二十年代の『北海道毎日新聞』から何々会という結社団体を拾いあげてみると、政談演説会、仙台親睦会、札幌同窓会、基督信徒親睦会、北越親睦会、岩手県人親睦会、北海道通信会、山口県人懇親会、北海禁酒会といったように数多くの団体が活動している。それらの結社団体は、札幌の既成の地域共同体から一歩脱して、自らのやらんとする目的を高らかに明示し、ある特定の施設、たとえば料亭、教会堂、遊戯施設等々を会場として定期あるいは不定期に会合を持つとともに、会則を設けたり、世話人を決めて運営している。それらに共通していることは、既成の生活共同体とは別の次元で、目的を同じくすることや同郷であることを拠りどころに、共に学習したり楽しみを分かち合い、親睦を深めていることである。
このような札幌の結社団体の発生は二十年代に集中しており、結社団体の勃興時代ともいえよう。ところで二十年の札幌の人口は、区と村(対雁村を除いた一七カ村)合わせて六六五七戸、約二万九〇〇〇人である(北海道戸口表)。札幌の都市形成への過渡期ともいえるこの時期における結社団体の、爆発的と思われる勃興の目的・原因はどこにあったのだろうか。