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職業斡旋業の出現

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 製麻会社や製糸場等では、必要な労働力を得る方法として新聞に募集広告を掲載して公募した。特に製麻会社の場合、募集のために専任社員が府県へ出向いて男女職工を集めてくる場合が多かった。この場合社員というより募集を委託された斡旋業者が「甘言」で誘い遠国より集めてくる場合が多く、ためにしばしば弊害が生じたことはいうまでもない。

写真-5 製麻会社の募集広告(北海道毎日新聞 明治22年7月27日付)

 日清戦争後の事業拡張にともなって札幌では、これら工場等に職工を斡旋するいわゆる「口入屋」が増加し、三十年七月段階では二六人にも達していた。斡旋業者のなかには製麻会社や製糸場の女工を逃亡させたり、転業させるような悪徳業者もいたため、警察では業者一同へ弊害矯正を諭すとともに取締を強化した。その一方斡旋業者は、組合を結成して規約まで設けた。しかし、三十二年には口入業専門の会社まで設立され、人夫、芸娼妓、出稼の斡旋まで行った。当時の札幌は、札幌はもとより道内各地への労働力供給基地ともなっていたのである。

写真-6 北海道介立合資会社の広告(北海道毎日新聞 明治32年4月11日付)