市街における屎尿の処分はごみと同様にあまり円滑には処分されていなかったようである。二十年代はじめには営業者に賃金を支払って処分を委託していたが、二十四年頃より付近の農家で蔬菜栽培の肥料としてこれを利用する者が増加し、一箱金八銭で売り出すにいたった。
ところが、市街のほとんどの便所の構造が便槽を持たない土をくり抜いただけの構造であったため、地下水に流れ込み飲料水を汚染することが問題となり、便所改良が二十八年頃よりようやく叫ばれるにいたった。このため便所改良は飲料水確保といった衛生上の観点から発生し、まず官舎の便所改良から着手された。畠山魏、吉田善太郎二氏発案の改良便所は便槽として一石入れの壷瓶(つぼがめ)を埋設する方法で、総費用一個につき四円九三銭を要するものであった。官舎の便所改良に続いて市街の人びとも次第に便所改良に理解を示し、飲料水改良組合(南一条西八丁目)が壷瓶による便所改良を一手に引き受けるにいたった。やがて、三十二年公布の「廁圊下水芥溜取締規則」で便所の構造をはじめて明示し、屎尿が地下水に混入するのを防ぐために屎尿壷かセメントやコンクリート等の不滲透材料の使用を奨励した。
また一方公設便所は、道庁所在地である一都会にもかかわらず不足気味で、二十年十二月には『北海道毎日新聞』に「札幌市街に共同便所之増設を望む」といった投書が載る始末であった。公設便所は開拓使の頃から設置されてはいたが、人口の増加に追いつかなかった。このため、二十八年中に一〇カ所増設して二四カ所としたが、破損が甚しかったり清掃が行届かなかったためとかく不評判であった。三十二年四カ所増設とともに、衛生組合の発足にともない利用者への厳重注意を促し、かつ清掃を月六円で業者に委託するにいたっている。