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市制運動

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 ところで、三十年区制を生み出す直接の契機となったのは、函館の市制運動であったことに注目しなければならない。
 三十年区制公布前に、その内容が巷間に伝えられた様子は、東京日日新聞、時事新報等の的確な記事からもうかがえる。また「一昨年来(編注・二十八年のこと)本道人士間に唱導されたるゝが、該制度は昨年十月頃ろ、始めて編製を終り、当局者より各地方一二の有力者に示して、其の意見を叩き、之を其筋より法制局へ回送したる次第」(道毎日 明30・1・26)という手順を経たとすれば、少なくとも各地方一二の有力者はその内容を承知したことになる。それが道内に広まると、三十年区制案に反対し、市町村にもっと幅広い権限を持たせ、住民の自治権を強めようとする運動が盛り上がり、その中心となったのが函館の人たちである。
 函館の実業家小川幸兵衛を代表とし、平田文右衛門渡辺熊四郎相馬理三郎等の主張は「函館ノ隆昌発達ノ顕著ナルニ拘ハラス、尚僅ニ此現行区制ニ些少ノ修正ヲ加ヘタル新制ヲ施行セントス。是レ全ク自治制ノ精神ニ反スル」(帝国議会請願ノ趣旨)ところにあった。彼等はまず函館の現状を詳細に分析した大部の上申書を政府に出し、上水道や築港を住民主導で遂行しなければならない緊要性を訴え、区費負担、基本財産造成、公債募集を可能にするために、「内地と同一の市制を施行せられんことを希望す。……本区に対しては、市制中の一部を改正し、法律として之を施行する」よう要求した(道毎日 明29・12・23~27連載)。これは三十年区制案に対する反対運動であり、市長選出の民意反映、市議会の権限強化、道庁の指揮監督縮小を意味する。さらに同様の趣旨を帝国議会貴衆両院へ請願し、採択に向けて院内外で運動を続けた。札幌の人たちへ、この運動に同調参加するようにとの呼びかけが函館から舞い込んだ。
 しかし、その誘いに札幌から積極的に参加した形跡はない。もっとも「当区有志者も一同集会の上にて、何分の協議を遂けんと兼て談合ありたるも、何分年末歳首にて其意を得ざる所ありしが、不日集会協議の結果を函館区の有志者に回答する筈なり」(道毎日 明30・1・10)というが回答の有無はわからない。しかし実状は「札幌小樽は未だ公然勢力ある団結を作りて之に応援するの意気無きが如しと雖も、割合に其実力に富み割合に進歩せる考を抱持し居る一区一港の人民は、個々其希望を叩かば函館区民同様の意見」(道毎日 明30・2・20)であった。函館の運動について道庁幹部の「意向如何を窺ふに、全く市制不施行に在る」状況下で、むしろ目前に迫った三十年区制を「兎に角歓迎の意を以て、其出づるを待つや明らかなり」(道毎日 明30・2・13)というのが札幌の大勢であった。
 札幌の自治権運動に前述の二派がある。特別制派にとって三十年区制案は全面的には同意しかねるにしても、ともかく区が法人格を持ち区会が開設されることに賛成し、自派の運動が一定の成果をもたらしたものと評価した。一方の道庁派は拓殖事業の推進とそれを所管する道庁の権限強化をねらったから、市町村自治に関しては後手に回り、いずれも函館の運動に同調参加しづらい状況にあったといえよう。
 時あたかも、設置をみたばかりの拓殖務省を廃止すべしとの意見が表面化した。その悪影響を心配した道庁派は「此の際、又々本道の施政に変動を来す如きことありては、愈々不都合なれば、此の際同道を拓殖務省より分離せしめ」(道毎日 明29・12・20)、北海道の独立施政の実現をめざしたのである。そこで対馬嘉三郎が代表となり、六二人の連署をもって帝国議会に北海道總督府創設の請願書を提出した。函館の市制請願から一七日後の三十年一月十一日のことである。その主張は「台湾ニ傚ヒ總督府ヲ置キ、重大ノ権限ヲ附与シテ事業ノ進刷ヲ図ルニ非スンハ、到底成功ヲ期スヘカラス。故ニ北海道ニ總督府ヲ創設セラレ」(帝国議会請願ノ趣旨)たいとした。議会はこの請願を採択しなかったが、函館の運動と札幌の立場を際立たす結果になったといえよう。