しかし、杉田道庁長官にかわっても延期になった三十年区制の行方は明らかにならなかった。「赴任以来未だ一回の調査会を開きたるを聞かず。想ふに調査会なる手前味噌的金看板は不必要なるを以て、委員の多数が免職となりたるを幸ひ、其儘となし置」(道毎日 明31・10・25)く状態で、在任わずか四カ月大隈内閣の崩壊とともに免官となるが、その背景には中央政界の改編の影響によって生まれた憲政党札幌支部と、これに対抗せんと結成された同志俱楽部の確執があった(第二節参照)。
第二次山県内閣が成立すると、内務大臣に最後の開拓長官を務めた西郷従道が就き、第八代目の道庁長官には園田安賢が任ぜられた。園田は薩摩の出身で、警視総監を経て四八歳でこの職についたから、安場とはひと回り以上も若かった。「来任するや官紀の振粛を励行すると共に、支庁長委任の土地処分権の如きも之を縮少し」(北海開発事績)、八年の長期にわたって在任し、北海道拓殖銀行の設立、旧土人保護法の制定、いわゆる十年計画の策定などに敏腕をふるったが、日露戦争の緊縮財政のあおりを受け、中断した事業も多い。
彼は北海道に自治制を施行することに消極的だったといわれる。就任の抱負を問うた新聞記者に「北海道より衆議院議員を選出して何等の利益あるやの反問を以てし、反て其不利益を鳴らさんとするものゝ如く……議院政治の不可を鳴らすと共に、北海道議員選出に反対するの意を明らかにしたり」(道毎日 明31・11・26)という。さらに「本道に自治制度を布くは余程考へものなりと云ひ居らるゝ由にて、之れに対して未だ一定の意見もなきか如く、其考へものなりとの言によりて推測を下せは、自治制を行ふことに同意せざるやうにも聞ゆへし」(道毎日 明32・1・19)とも伝えられた。しかし、市町村自治、道会設置、衆院参政権のいずれもが園田の在任中に実現することになる。
「本道に於ける自治制談は近来殆んど世人の口吻に上らさる」ありさまが転換するのは、長官就任半年後の明治三十二年(一八九九)五月であるから、道庁内部や内務省との折衝はさらに早くから進んでいたのであろう。道毎日は東京朝日新聞の記事を引用し「園田現任長官は客月に至り新に北海道区町村制の案を具して、之が審議を内務省へ禀申せり」(5・31)と報じ、また国民新聞に載った園田談として「北海道の自治制は、内地の市町村と同一程度に進み居る処は内地同様の制度を布き、一級二級の区別の如きは之を設けざる意見なり。折中の制度は適当ならざるにあらざれど、之を布く数年ならずして変更せざるべからざるに至るべし。既に本土に於て本筋の自治制ある以上は到底其処まで進まずには居らざるべし。故に初めより断然本土の自治制に則りたるものを布きて、折中の為めに之を本筋の自治制に進むるなどの運動の余地を存せざること、他日の混雑を来たさゝる所以なりと考ふ。去らば其の自治制を布くことが北海道現今の為め全く宜しきやと問はゝ、未だ然りと答ふる能はず」(6・13)と伝えた。
道庁、法制局との調整が整い、内務省が三十年区制の改正案を閣議に提出するのは七月十三日のこと。この時点で、区制と一、二級町村制を分離する方針が明らかになった。すなわち明治三十年勅令第一五八号をもって公布した北海道区制のみをまず改正しようとするのである。閣議文書はその改正理由と改正点を次のように述べている。
北海道区制ハ明治三十年第百五十八号ヲ以テ公布セラレ、爾来実施ノ運ニ至ラス。然ルニ現制ニ依レハ区長ハ高等官ヲ以テ之ニ充ツルモ、斯ノ如キハ自治制ノ旨趣ニ反シ、偶々事端ヲ惹起スルノ因タルニ過キサルヲ以テ、区長公選ノ制ニ改ムルヲ至当トス。
又、区公債ニ関シテハ格段ナル制限ヲ付セラレタルモ、北海道ハ尚創始ノ際ニ属シ、其設備ヲ要スルノ事業極メテ多ク、随テ多額ノ区債ヲ起スノ必要アルニ依リ、其制限ヲ除キ以テ実施上支障ナカランコトヲ期シ、其他之ニ関聯スル条項ヲ改正セント云フニ在リテ、相当ノ儀ト思考ス。依テ請議ノ通閣議決定セラレ可然ト認ム。
又、区公債ニ関シテハ格段ナル制限ヲ付セラレタルモ、北海道ハ尚創始ノ際ニ属シ、其設備ヲ要スルノ事業極メテ多ク、随テ多額ノ区債ヲ起スノ必要アルニ依リ、其制限ヲ除キ以テ実施上支障ナカランコトヲ期シ、其他之ニ関聯スル条項ヲ改正セント云フニ在リテ、相当ノ儀ト思考ス。依テ請議ノ通閣議決定セラレ可然ト認ム。
(公文類聚 明治三十二年 第二三編)
これによれば、区長官選を公選に改め、区債制限をやめて区の自主事業を認める二点の改正により、区の自治権を強め、三十年区制を市制に近づけようという。内務大臣は総理大臣宛の請議文書で、その必要性を「現ニ函館ノ如キハ普通市制ノ施行ヲ希望シツツアル実況ニ」あるから、この希望を受け入れることが「円満ノ結果ヲ見ルヲ得ン」(同前)と判断したからだと明記している。ここから三十年区制の施行延期にさかのぼれば、函館の運動がその要因であり、改正による自治の拡大もまた函館の運動の成果であるといってよい。
二つの改正点を盛り込み関連条文を修正し、七章一一八条からなる新「北海道区制」案が閣議決定されたのは八月二日、天皇裁可を十七日に受け、勅令第三七八号として同日公布をみた(以下これを三十二年区制と呼ぶ)。さらに内務省令第四四号で施行日が明治三十二年十月一日からと決まり、同四六号で従前の札幌区は函館小樽とともに三十二年区制の施行地に指定された。こうして札幌の人たちの長年の願いであった法人格を持つ自治体札幌区は、明治三十二年十月一日に誕生したのである。