札幌区民にとって薄野遊廓は、「一種の醜的連想が起こるゆゑ識者は『遊廓移転問題』を口にするを耻る気味」のある問題であった。しかし「社会問題としては忽諸に附すべからず」として、道都であり学都である札幌の将来のためにも、都市の中心部から南端である中島公園内鴨々水門付近への移転が「風紀の上よりいふも市街の態面上よりいふも至当の」問題となってきた(北タイ 明34・11・21)。また古垣警部長は、三十五年六月薄野の火事に際し、薄野への遊廓再建は行政上問題ないが、「区住民の一人として観るときは移転すべき必要は確かに之を認む、現在の位置は市街のやや中央に位し併も公園の通路なれば、区の体裁上位置変更の必要を免れしむ」という意識をもっていた(北タイ 明35・6・26)。
さらに移転の決議後、いっこうに移転の具体的な動きが進まなかったため、大正五年一月、一部市民から遊廓の移転建議が出された。それによると「薄野遊廓は区の中央部に位し、中島公園に通する要路に当るを以て、風紀上并体面上其移転を必要とするは、夙に輿論の一致する所」という意識であった(区会会議録 大5)。これらは、遊廓が区の中央部にあるのは区の体裁上、風紀上よろしくないというもので、遊廓がもつ機能について否定しない。ところがこの頃には、薄野遊廓は売春を行うことで男性中心の開拓地での社会の安寧を図る機能だけでなく、札幌でも都市的機能を果たす一機関的な役割が認識されるようになった。それは、一つには遊廓とその周辺に発達した飲食店街を含む歓楽街としての機能である。もう一つには、歓楽街が存在することでの周辺への、主に経済的な波及効果である。したがって移転問題についても、その両側面から反響が出された。薄野遊廓が中島遊園地内に新築中の女子職業学校に近くなり、通学路上にあるという問題を指摘された(北タイ 明41・9・7)。これは女子生徒の歓楽街を通学路とすることへの風紀上の問題である。しかし桑園地区一部住民は、遊廓を桑園地区へ移転すると畑地が住宅地に発展するとして、遊廓の桑園地区への移転を区会に建議した(北タイ 明35・1・23)。これは経済的な波及効果と考えられる。
また三十四年の区会で遊廓移転建議案を審議した際、提案者から、遊廓移転は急がないが、「遊廓地移転ハ区ノ対面上ヨリ論スルモ、早晩起ル可キ問題ナルヲ以テ、今ニ於テ予メ之ヲ議スルマタ必要ナシトセザルナリ。建議者我々ハ此移転ノ建議カ幸ニ通過スレバ、同所火防線払下ゲントスルノ意思ナリ」と、周囲の火防地を区有地とする提案が出された。この火防線払下は、田中重兵衛議員からの反対で建議案を通過させるため取り下げられた(区会決議録 明34)。しかし、薄野遊廓が区市街地の中央に位置を占めるようになったことで、その跡地の利用についてもすでに考慮しようとしていたことがうかがわれる。遊廓が移転することでできる区の中央部の二丁四方の空隙は、都市の景観上も、都市計画的政策上でも大きな問題を投げかけることになるものである。