手稲村は大正期に入り急激な発展をみせてくる。これまでの主産業は主に農業であったが、農業が順調に発展を続ける一方で畜産が伸び、にわかに鉱工業が勃興しはじめていく。
手稲村の明治四十二年の総生産額は一三万九八〇〇余円のうち、林産が二万九〇〇余円、畜産が一万二〇〇〇円であった(北タイ 明43・3・2)。残りが水稲、大小豆、麦類の農産額となるわけであり、農業が主力であったといえる。ところが大正九年の総生産額についてみると、農産五五万三九八六円、鉱産三〇万一〇六九円、畜産一三万四三〇八円、工産四万五〇八二円、林産一万〇三八七円、合計一〇四万四八三二円となっており、鉱産・畜産が著しく伸びてきていたことがわかる。もちろん農産も五倍以上に増加しているが、鉱産・畜産の急増によりかつて七割以上を占めた農産の割合が、そのために五割までに低下しているほどである。
鉱産増加の最大の原因は、明治四十五年五月に軽川に創設された日本石油北海道製油所の操業によるものである。また畜産では三十九年四月に本場が茨戸から移された前田農場、四十一年三月に小川次郎が創設した興農園(明43・9小田良治が買収)をもとに、大正七年に開設された極東煉乳会社軽川農場が代表的なものであった。大正七年現在、前者は面積約一八〇三町歩、牛七五頭(前田農場要覧)、後者は八六〇町歩、四七七頭を保有していた(北タイ 大7・9・10)。手稲村全体での飼育数も四十一年は二六六頭であったものが、大正十年には六九二頭にまで伸びており、これは石狩支庁管内では石狩町に次ぐものであった。飼育戸数も一八三戸あり、農家の副業としても酪農が行われていた。
手稲村は人口の推移をみると発足時の三十五年に三三二一人であり、しばらく三〇〇〇人台であったが、四十四年に四一六九人となり四〇〇〇人に達し、大正三年から五年にかけて五〇〇〇人を超えている(六年以降は減少)。この背景には明治末期から大正初期にかけて諸産業の著しい進展があったのである。