ビューア該当ページ

定山渓と定山渓温泉

176 ~ 176 / 915ページ
 定山渓は元湯(明13創設)、中の湯(明19)、鹿の湯(明29)の三軒の温泉場があり、温泉保養地として名高かったが、この頃はむしろ農業地の性格が強かったのである。
 大正三年十一月に郵便局設置を請願した資料によると、定山渓には一三五戸、人口が五四〇人あり、そのうち農業が八二戸(豊平町史資料一五)、帝室林野管理局の農場小作人が多く、ここには定山渓分担区駐在所も設置されていた。地内は定山渓、一の沢、東一番通、東二番通、薄別、小樽内川よりなっていた。
 定山渓が温泉町として飛躍的な発展をみせるようになるのは、大正中期であった。その大きな契機となったのは、大正四年の豊羽鉱山の開鉱であった。「鉱山開発以来、商店・旗亭等増加し繁盛を極む」といわれ(殖民公報 第九三号)、同鉱の伸長と発展が鉱山景気となって、定山渓温泉に大きな恩恵をもたらしていた。そして七年には定山渓鉄道も開業し、一大温泉町へと発展していくようになるのである。
 その大きな要因となった定山渓鉄道は大正元年に敷設が計画されたもので、温泉客の輸送をはじめ、沿線の農産物、木材、鉱物などの輸送が目的であった。工事は五年七月に着工され、七年十月十七日に開通となった。鉄道院線の白石駅と定山渓の間一八マイル半を約二時間で走り、その間に豊平(本社を併設)、石山に石切山、丸重吾沢に藤ノ沢、簾舞の四駅が設けられていた。開通当時は一日三往復であった。