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帝国製麻の営業と札幌工場

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 表1には示さなかったが、明治四十一年以降の帝国製麻全体の生産にしめる札幌工場の比率を見てみよう。亜麻糸生産価額では明治四十一~四十三年には四〇パーセント台、四十四~大正二年に少し落ち込むが、三、四年に五〇パーセント台、以後七年には最高の七八パーセントとなりその後三〇パーセント台に落ちている。これに対して麻織物生産価額では大正三年まで二〇~三〇パーセント台、四年から九年までは一〇パーセント台で、十、十一年のみ四〇パーセント台に上昇している。札幌工場は、亜麻糸生産では変動が大きいものの全国的に高いシェアを、麻織物では安定して亜麻糸よりも低いシェアをしめていた。この結果、両者を合わせた亜麻製品生産価額ではほとんどの年で三〇パーセント台のシェアであった。明治四十年から大正五年までの職工数は、男女合わせて四十二年の六一七人を最低に、大正四年の一二〇四人を最高としていた。これはほぼ生産価額の推移に対応している。男女の内訳は、大正四年では男工二三五人、女工九六九人である。男女の変動は異なり、男工の最低数に対する最高数は一・五倍であるのに対し、女工のそれは二・四倍であった。主として女工の増減により雇用調整が行われていたわけである(北海道庁統計書 各年)。

写真-1 帝国製麻株式会社 亜麻製線作業風景

 帝国製麻設立初期の札幌工場はどのような状態だったのだろうか。まず、製品は麻帆布(ズック)、麻布(ダック)を主にそのほかリンネル、ホース、漁網、網糸、麻布用糸、蚊帳用糸、ジュー糸、畳糸、帆縫糸、各種麻糸、麻織物であった。麻帆布(ズック)は、陸海軍省、逓信省に納入するほか、民需の炭坑通風、敷物、雨覆、馬具として販売された。麻布(ダック)も陸海軍・逓信各省のほかテント、袋地、脚袢(きゃはん)、夏服地として販売された。麻布用糸は、麻織物産地である奈良、越前、近江方面へ、蚊帳用糸は奈良、関戸(山口県岩国)、越前方面に移出された。また海外販路も開かれ、網糸がカナダのフレーザー川鮭漁の漁網用に輸出されている。北海道の漁網用網糸も供給していた(北タイ 明42・4・6)。
 次に、職工の労働と生活について二つの対照的な資料がある。『北海タイムス』は明治四十二年四月に帝国製麻札幌支店についての連載記事を掲載した。このなかで「本道に本支店を有する各種会社にして、附属職工寄宿舎の設備あるもの其数少からずと雖も、製麻会社札幌製品工場の如く完備せるものは稀れなるべし」として、寝室のほか食堂、浴室、裁縫所、髪結所があり、一棟ごとに管理人夫婦がおり、掃除も厳しく監督し清潔である、庭には四季の植物が植えられ、女工たちの憩いの場となっている、など絶賛している(北タイ 明42・4・10)。募集方法や待遇も改善され、たとえば多くの女工の出身地である東北の飢饉の時には親元へ会社から見舞金が送られ、病気で退社した女工は故郷の村まで社員の介抱付きで送り届けられたという。平日の夜七時から九時までは「行余学校」と称して読み書き、算術、裁縫を教え、乳児をもつ女工のために保育も行っているという。その結果「北海道製麻会社時代は職工の出入頻繁にして……無賃渡航希望者、堕落書生等を募集せしに……中途遁走するものあり、着社早々雇傭契約に背けるを口実として就業せざるあり、賭博、放蕩に耽るものあり」、これに対して会社側は女工の外出を一切禁止し、書信を検閲し、貯金も雇用契約満了まで渡さずしばしば裁判沙汰にまでなった。「然るに今や全く当時の状態を一変して只管相互の便益を計るの域に達したるは会社に取りて頗る有利なるのみならず職工生活者も亦幸福なり」とまとめている(北タイ 明42・4・11、13)。
 もう一つの資料は『小樽新聞』の明治四十五年六月「札幌工場廻り」という連載記事である。まず工場の中に入ると「轟々たる器械の音、朦々たる場内の空気……天野支店長は方々引張り廻して何か色々話して呉れたけれども、鼓膜も破れん計りの器械の音に喫驚(びっくり)仰天した僕は、解った積りでハイ/\と返事して来たまでゞある」という。そして「乾坤も為めに砕けんとする如き喧轟の工場内に、繊弱(かよわ)き女工が平気で孜々(しし)として働いてる処は、不思議な気もすれば、可愛相な心も起きる。耳は如何かしないだらうか吃度病気を行りそうだが如何云ふものか会社は此辺の設備に如何なる注意を払ふて居るか」(小樽新聞 明45・6・23)と書かれている。女工の寄宿舎では、八畳間に五、六人ずつ割り当てられ窮屈であること、六畳の娯楽室はテーブル、花瓶、小説が用意され、「一番人並らしい室」であること、そして食堂は驚くことに土間で、「軍隊に在る雨中体操場のやうなもの」であること、食事メニューは朝は味噌汁、香物、昼は昆布の煮付、晩は何か一つ魚が付くというが「之で血気正に熾んなる女工の営養(ママ)が出来るか知ら」と記している(同 明45・6・25)。
 北海タイムスの記事は関係者からのインタビューによっているが、小樽新聞の方は記者が工場、寄宿舎に入り、その印象を書き記している。その分だけ後者の方がリアリティを感じさせる。
 帝国製麻の営業状況を表2に掲げた。明治四十年下半期から大正十年下半期まで、払込資本金は約四・三倍、積立金は約一〇倍となっている。当期利益金は、第一次大戦期に一〇〇万円を超え、払込資本金利益率も一〇パーセントを超えている。当期利益金の推移を見ると、明治四十二年上半期から四十三年下半期まで連続して減益したが、これ以後は第一次大戦終了まで連年増加した。四十二年からの減益期には製品在高が年々増大し、売れていないことがわかる。大戦期の利益の伸びは著しく、製麻業は活況を呈した。この時期には日本製麻(大3・2)、日本麻紡織(大8・7)などの製麻会社が続々設立され、帝国製麻の独占は崩れた(帝国製麻株式会社三十年史)。大正七年下半期からは利益金から固定資産償却金等を差し引いた純益金として表示されるようになり、また準備金も増え、純益金額はやや落ち込み始める。大正九年には製品在高も増え始め、好況の終わりを示していると思われる。しかし、寡占企業であった帝国製麻の利益は大戦前の水準を維持し、戦後恐慌の打撃は大きくなかったといえるだろう。
表-2 帝国製麻の営業状況 (単位;千円/%)
負債の部資産の部資産(負債)
合計
払込資本金
利益率(%)
払込資本金積立金準備金等当期利益金機械原料在高仕掛品在高製品在高
明40下4,0001801,631621989107,860
41上4,8002263551,6011,1281586407,3367.4
4,8002743661,5921,6421078458,0637.6
42上4,8003233501,6211,4191041,0197,9327.3
4,8003663461,6641,401941,0968,0897.2
43上4,8004083221,551950861,1007,7146.7
4,8003162861,570921919387,4256.0
44上4,8003612941,572558907507,3306.1
4,8004063271,547726716627,3686.8
45上4,8004633351,524457805037,4987.0
大1下4,8005203721,5531,055814677,5877.8
2上4,8005804341,591687825337,7909.0
4,8006404321,5731,7481055678,2289.0
3上5,5957004331,6091,2471137507,9597.7
5,6007604851,7741,8801109598,2888.7
4上5,6008224911,8041,4681339048,1258.8
5,6008845551,8801,7731785188,3729.9
5上5,6009727951,9521,1181814058,94214.2
5,6001,1079781,9461,6211485079,32117.5
6上8,0001,2471,1352,05899716051816,34514.2
8,0001,3941,9602,1544,23515444518,17624.5
7上8,0001,5572,4942,2613,0813471,34919,17231.2
8,0001,7921762,3322,2377,41835391124,34029.2
8上8,0002,1122371,5862,4956,9363311,19724,92519.8
8,9592,2901,6371,8692,8128,62134169126,25320.9
9上12,7702,4871,6461,5082,8476,7023682,09123,10311.8
17,1001,5671,6261,1773,6678,5725303,44240,0436.9
10上17,1001,7496499714,6396,7694923,20938,1685.7
17,1001,7995529424,8866,9302983,11738,8785.5
1.当期利益金の大正7年下半期以降は,「当期利益金」から「固定財産償却金」,「原料価格引下金」,「従業者保護資金」を差し引いた「当期純益金」である。
2.準備金等は,「製線工場災害補償準備金」(大正8年下半期~),「原料製品火災自社保険基金」(大正8年下半期~)、「使用人諸給与補充金」(大正7年下半期~),「職員恩給基金」(大正8年下半期~),「従業者保護資金」(大正7年下半期~)である。
3.帝国製麻株式会社『営業報告書』(各期)、同『五十年史』(昭34)より作成。