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「燕麦組合」の設立

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 こうした組織的な燕麦販売の確立は、北海道の産業組合組織の拡充に大きな意義をもったことでも注目される。開拓期の北海道の産業組合は、都府県のように自治村落を基盤とした自生的発展を望めなかったため、産業組合法が設立された明治三十三年に独自に勅令に基づく産業組合設置を認められたがほとんど設立をみず、全国でも後進地に属していた。燕聯が設立された段階ではほとんど産業組合は設立されておらず(わずかに八四組合)、産業組合に加えて町村農会が販売斡旋をするものとされた。とはいえ、これ以降、燕麦販売を目的とする産業組合(「燕麦組合」)が設立をみるのであり、大正二年の大凶作への対応と並び、産業組合設立の原動力となるのである。そのことは、産業組合の販売取扱に占める燕麦の割合において明瞭であり、大正二年では全道の販売額七七万円のうち燕麦は四五万円で五八パーセントを占めている。その後、割合は低下をみせるとはいうものの、六年においても二〇パーセントを占めているのである(産業組合要覧)。
 そのなかで、札幌の産業組合は糧秣廠の窓口が置かれたこともあり、先進的な動きを示す。大正四年の燕聯の会員をみると、石狩が二五、空知二七、上川八、後志一三、檜山一、渡島一、胆振一、日高二、十勝二、網走三、留萌一であり、そのうち札幌は九組織であった。それを記すと、篠路村烈々布販売組合、篠路農場販売組合前田農場組合篠路学田販売組合琴似購買販売組合白石北郷購買販売組合篠路村農会白石村農会軽川購買販売組合であり、まさにその中心をなしていたのである(燕聯沿革史)。
 やや具体的にみると、もっとも早く対応したのが琴似であり、明治四十三年に申し合わせ組合として琴似購買販売組合が結成された。その後、北海道庁の指導により明治四十五年には産業組合法に基づく無限責任形態へ組織変更をしている。事務所は新琴似の屯田第三中隊本部跡におかれ、設立時の組合員は三四一人であった。事業内容は、任意組合時代から燕麦と牧草の販売と包装資材の共同購入であった(新琴似農協三十年史)。篠路村においても、大正二年には烈々布産業組合(組合員三五人)が、三年には学田産業組合(組合員一七人)が、そして四年には拓北農場を一円とした篠路農場産業組合(組合員一〇〇人)が誕生している(篠路農協三〇年史)。また同年、札幌村の北大第三農場においても産業組合が設立されている(北大第三農場)。以上の琴似村から札幌村、篠路村にかけてが燕麦生産の中心であり、その販売を目的として初期産業組合が形成されたわけである。
 ただし、この時期の産業組合の事業が順調に推移したかというと必ずしもそうではない。この時期もっとも規模の大きい琴似産業組合の組織と事業の推移をみると(表26)、四年までは順調に販売額が推移しているものの、五年から七年までは極端に落ち込み、組合員戸数も減少している。これは、第一次世界大戦による物価騰貴により燕麦の市中価格が上昇したにもかかわらず、糧秣廠の買入価格が追い付かず、産業組合の設立で沈滞していた雑穀商人の参入が著しく進んだからである。この結果、七年には予約納入不履行組合員の除名処置も行われている。このように、初期の産業組合経営は必ずしも順調ではなかったのである。琴似産業組合が信用事業を開始するのは大正十五年からであり、その本格的な展開は昭和恐慌期の経済更生運動を待たねばならなかったのである(新琴似農協三十年史)。
表-26 琴似産業組合の組織と事業
組合員自己資本販売額購買額剰余金
大1341人175円112,253円16円473円
 23531,019121,913452527
 43362,360108,46494600
 53244,31472,618181298
 63073,91965,824399318
 72734,2831,807188302
 82764,587220,874470631
 92805,222137,1521,570845
1.自己資本は払込済出資金,準備金,積立金の合計。
2.大正7年の販売額は過小であるが,そのまま表示してある。
3.北海道庁内務部『産業組合要覧』(各年次)により作成。