以上の牧場経営に対し、都市近郊的な特徴をもって現れてきたのが搾乳業である。その動向を示したのが表30である。データは札幌郡と札幌区の合計であるが、明治四十二年から大正元年までは札幌区の搾乳場の方が多く、ピークの四十三年には六〇を数える。その後は減少して一部が郊外に移転しつつあることがわかる。全体の搾乳場数は、三十九年の二五から大正六年の一一四まで拡大するが、一時期札幌区の減少に合わせて減少する時期が存在する。それに対応して、乳牛の総頭数も成牛数も拡大し、大正六年には札幌区で五五二頭、札幌郡で一〇五九頭となる。後者は札幌郡の畜牛総頭数二九七七の三五パーセントを占めており、その躍進ぶりがわかる。生産量、販売価格も増加するが、大正六年の一搾乳場当たりの販売額は一五四五円であり、同年の農家一戸当たりの農産物販売額六二一円の二倍以上となっている。また、その総販売額を農産物と比較すると四パーセントであり、野菜販売額の四二パーセントに当たる水準である。
| 搾乳場 | 頭数 | 成牛 | 生産量 | 価格 |
明39 | 25 | 181頭 | 153頭 | 1,038石 | 16,598円 |
40 | 37 | 391 | 288 | 1,870 | 33,510 |
41 | 42 | 486 | 442 | 1,911 | 29,951 |
42 | 91 | 661 | 590 | 3,151 | 47,397 |
43 | 81 | 877 | 756 | 3,203 | 54,544 |
44 | 62 | 642 | 556 | 4,943 | 60,793 |
大 1 | 59 | 758 | 508 | 3,876 | 56,098 |
2 | 65 | 878 | 551 | 4,236 | 52,080 |
3 | 61 | 1,042 | 629 | 4,479 | 50,553 |
4 | 66 | 1,232 | 831 | 5,723 | 71,897 |
5 | 83 | 1,306 | 966 | 8,269 | 107,548 |
6 | 114 | 1,611 | 1,166 | 12,784 | 176,145 |
日本での牛乳販売が、農家による酪農ではなく都市搾乳業として開始されたのと同様に、札幌においてもそれは市街地から始まった。明治十九年に
岩淵利助が
乳楽軒という料理屋を営むかたわら、払い下げの乳牛を飼養して牛乳を販売したのが初めであるという。初期の搾乳業者の経営は市街地に近接した土地において行われ、頭数も一~二頭から五~六頭であり、開拓使によって牧草が市街地に播種されていたため、そこで繋牧されたという。牛乳販売は宅配によるもので、「配達に出るのが五時半、牛乳缶を背負うて出て、一、二時間を費やして二、三升の牛乳を売り歩いた」(
宇都宮仙太郎談)あるいは「鉄砲缶で窯でわかすという殺菌法で、一本が五勺入りのビンを入れて配達した。お得意は五、六〇軒だった」(
黒沢酉蔵談、ともに『サツラク三十年史』)という状況であった。ちなみに、両者は北海道酪農界の重鎮となった人物である。飲用乳市場は、病人や育児を対象としており狭隘であり、次に述べる練乳事業が開始されるまでは余乳問題が深刻であった。その事情を『
北海道煉乳製造史』から引用してみよう。
政府及道庁における乳牛奨励その効を奏し、逐年その頭数を増加し、就中札幌付近に於ける増加著しく、遂には需給の均衡失して、牛乳の処分に窮し、……乳牛所有者は止むを得ず狸小路その他のアイスクリーム屋に持ち込み、又は〝豊平行き〟と称して宇都宮、林の両牧場の牛酪製造所に持行き、哀願して買入れてもらう如き状態にて、生乳一升四銭位にて売りたることも珍しからずと言はれ、一流の乳牛飼養者さえも、過剰乳の処分に困惑し、時としては水流に投棄し、水流の白濁を眺めて徒に嗟嘆に暮るものさへあった。