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設立の経過

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 北海道拓殖銀行は、明治三十二年(一八九九)三月公布の北海道拓殖銀行法に基づく特殊銀行として、翌三十三年四月に設立された。当初、資本金は三〇〇万円で本店を札幌区に置いた。
 北海道拓殖銀行は、府県農工銀行に対応する不動産銀行であり、北海道固有の銀行であった。この時期には特殊銀行が相次いで設立された。すなわち、商業銀行たる普通銀行に加え、長期金融機関として農業金融・不動産抵当貸付を担当する日本勧業銀行、府県農工銀行、そして長期金融機関として工業金融・有価証券金融を担当する日本興業銀行という分業構想が具体化したのである。このことは、産業革命期の企業、商人、農民が必要としていた工業化および農業生産力向上のための長期資金を、民間の銀行、高利貸資本が十分に供給できなかったことを背景としている。このための政府の保護を受けた特殊銀行構想が、日清戦後経営のなかで実現したわけである。
 とりわけ、返済期間の長い不動産抵当貸付は、民間銀行にのみ任せるわけにはいかず、特殊銀行が政府の保護により、低利資金を長期にわたって供給することが期待された。ましてや本格的な「開拓」が緒についたばかりの北海道は、内地に比して高金利であり、低利な開墾資金の大量供給はもっとも必要とされるところだった。しかし、明治二十九年四月公布の農工銀行法は、その株主を府県内に求めなければならないという制約があったが、資本蓄積がきわめて低位で、内地資本の流入に依存しなければならなかった北海道は、その条件に適さなかった。ここに、北海道固有の不動産銀行設立が要請される理由があった。
 北海道における固有の「農工銀行」構想は、明治三十二年二月貴族院における「北海道拓殖銀行設立ニ関スル建議」として具体化され、内務省サイドの立案によって北海道拓殖銀行法が成立した。府県農工銀行との相違は、第一に株主に関する制限をいっさいなくし、第二に株式のうち資本金の三分の一にあたる一〇〇万円は政府の直接引受とされ、しかもそれは一〇年間無配当でよいとされたこと、第三に日本勧業銀行の代理店となることや、日本勧業銀行による債券引受などの勧銀との関係を欠いていたことである。しかし第三点は、明治三十八年北海道拓殖銀行法改正により修正された。これは拓銀とは別に、北海道農工銀行を設立するという運動と構想が完全に挫折したことにより、農工銀行の機能をも合わせもつことになったからだといわれている(斉藤仁 旧北海道拓殖銀行論)。しかし、拓銀と府県農工銀行・勧銀との最大の違いは、拓銀には、農銀、勧銀に許されていない商業銀行的業務が付加されたことであった。すなわち、株券・債券を担保とする貸付(動産貸付)や荷為替の取組みである。
 このように拓銀は、不動産銀行という基本的性格に加えて、動産銀行、商業銀行としての性格も加味されて出発した。これ以後、明治四十四年改正で手形割引を業務に加え、また大正五年改正で手形割引の担保上の制限を撤廃し、かつ短期貸付残高の制限を年賦貸付・定期貸付残高(両者を合わせて長期貸付)の二分の一から三分の二に緩和し、商業銀行の性格は制度的にほぼ完備された。そして第一次世界大戦後には、府県農工銀行が農業金融から離脱し、次々と勧銀の支店化していったなかで、拓銀は商業銀行的側面をますます強めながら、独自の地位を固めていったのである。
 日露戦争期から第一次世界大戦期にかけての拓銀は、不動産銀行から徐々に商業銀行的側面を強くする過渡期とみなすことができる。拓銀の活動については、すでに斉藤仁による詳細な研究があるが、ここではそれと異なる角度から、北海道金融市場のなかで拓銀が果たした役割について述べていきたい。