政治的権力抗争の渦中にあって、俱楽府はどの政党にも属さないことが決議された筈であった。しかし非政社として発足した実業協会が、三十二年十一月に政社として組織を改めたことによって、事態は再び後戻りする恰好となっていた。実業協会が政社組織に改めた背景には、三十二年十月からの区制実施に伴う区会議員選挙に向けての、憲支部との対抗関係があった。こうした関係は、両派の党員を合わせ持つ俱楽府の役員選挙にも反映した。
俱楽府の改造後、三十三年一月二十二日に行われた初の役員選挙では、実業協会派が全勝を納め、新役員は府長の谷七太郎が憲政党派である他は、幹事を五人共実業協会派とし、谷を制肘する形をとった。
このように政治的影響力にさらされながら活動を続けていた俱楽府は、三十六年四月、規則を改正することによって二度目の軌道修正を図った。俱楽府が設立された二十九年九月に定められた商業俱楽府規則(全一五条)は、第一条に「本府は有志者一致団結し各自の信用を保持し北海道に関する重要有益の問題を決定実行するを以て目的とす」とあるほかは事務細則にすぎなかった。これに対して新しい商業俱楽府規則は、一切の政治運動に関与しないことを主旨として、七カ条全てが商工業振興団体としての俱楽府の活動内容について定めていた。
規則を改正することによって活性化を図ろうとした俱楽府では、役員の改選を行い、府員の勧誘に乗り出した。規則改正後の総会は、園田道庁長官、加藤札幌区長、斎藤札幌支庁長、大槻札幌郵便局長、佐藤農学校長等を来賓に、出席府員約二五〇人という盛況ぶりであった(北タイ 明36・4・22)。