この時代、道都としての札幌の位置付けはさらに重要なものになり、各地を結ぶ連絡道路はさらに整備される。
三十三年九月、小樽の山田某ほか有志は、定山渓道路開削の請願を計画していた。そのため二五〇人の連署を得て、さらに札幌有志に交渉のため委員が札幌に出張してきた。札幌区会の開会中でもあり、区会議員の同意を得て、札幌と小樽から委員を出して請願することになった(道毎日 明33・9・18)。そして十月十五日小樽山田吉兵衛、船木忠郎、札幌南部源蔵が有志代表として道庁へ行き、事情陳述とともに意見書を提出した(道毎日 明33・10・16)。
この道路開削要望の動きは、三十一年三月末にも行われていたが、今回の請願にはその時の意見書の写しが付されていた。その意見書の趣旨は、現在ある札幌小樽間の交通機関が鉄道と一本の道路だけで、「一発の砲弾を以て粉砕遮断せらるゝ」おそれがあり、そのときに小樽が孤立してしまうため、定山渓から小樽への道路を開通して、「安全なる交通送兵の便」に供するというように、軍事的要素を強調している。そのほかこの道路開削を急ぐ事情がないという意見に対して、「拓殖を重んじ移民を招来せんとせば傍ら防備を厳にして以て本道実業機関の要部を保護し如何なる事変に遭遇するとも農商をして堵に安んして其業を力めしめん」などと、拓殖政策からの軍事的要望を強調して反論している(道毎日 明33・10・24)。
その後この道路は陸軍内部からの要求もあって、十年計画中に差し加えられたが、沿線に殖民地が少なかったため後回しになっていた。道庁ではそれを三十六年度から三十八年度までの事業として実行することにした(北タイ 明35・7・2、10・28、12・6)。ところが想定した白井川(豊平川の支流)から上がる路線では、実際の踏査した例が少なく、実際の路線の決定も測量もできず、なかなか工事に入れなかった(北タイ明37・2・9、2・13)。そのため白井川から上がる路線ではなく、小樽内川(豊平川の支流)から銭函へぬけ、山腹を縫って小樽へ抜ける路線にした(北タイ 明37・2・21)。この路線は、現在では小樽内川上流から銭函ではなく、より西方の小樽市朝里へ抜けている道路であろう。
そのほか、四十一年以降札幌より琴似経由軽川までを鉄道線路沿いに道路を開削しようとした。これもはじめ北五条西一二丁目からの路線であった。しかし農科大学から西一三丁目からにするよう要求が出るなど、路線についての問題が起こるなどしたが、順次開削されていったようだ。四十三年八月には札幌琴似間の道路完成祝賀会が開かれている。発寒川縁から軽川までの工事は四十五年度に行われたようだ(北タイ 明41・5・4、42・7・21、43・8・1、45・4・18)。
また現在では、札幌から石狩町花畔や花川へ通じる第一の道路は、西五丁目通から通称新琴似四番通を抜けて花畔に通じる道路である。この道路は、まず通称新琴似四番通を延長して、軽川花畔間道路に結ばれ(北タイ 明40・1・8)、さらに西五丁目通を北へ延長して、現在の麻生で通称新琴似四番通に合流させて(北タイ 明44・4・15)できた。
これらのほか各連絡道路の修繕および整備は、道庁施工だけでなく民間有志によっても行われた。例えば、札幌茨戸間道路を新琴似住民が自費で修繕した(北タイ 明34・11・5)。「白石村字北号」(北郷)から同字川下の道路の修繕は、厚別村民等が共同修繕と修繕費寄付を行った(北タイ 明39・10・27)。