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新琴似兵村からの出兵

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 新琴似篠路兵村に入地していた屯田兵は、いまだ後備役中であったために召集を受け、日清戦争に続き出征することになった。前回は戦地に赴くことなく東京で終戦を迎えたが、今回は烈しい戦火の中に飛び込む出征であった。
 新琴似兵村の場合八二人が召集を受け、そのうち約半数の四二人が歩兵第二五聯隊に属していた。聯隊に出動令が下ると同時に後備役、補充兵役に召集令状が出され、「挙村軍人たる屯田兵とてなかなか以て混雑を極めた」という(以下『新琴似兵村史』による)。入隊当日は、「兵村各戸国旗を掲揚し、学校生徒は小国旗を手に翳し、老幼婦女子等見送り団体の一斉に叫ぶ万歳声裡に送られて」、村を出立していった。
 主要な働き手を失った兵村では近隣と労力の交換をする「手間換」をしながら耕作に従事し、婦人でもプラウ、ハローを使用して馬耕を行い、田畑を守り育てていた。一方、琴似村の戸長役場では三十七年十二月十四日に、以下の告諭を出して戦争への「村民一致奉公」を求めていた。
……貯金ヲ多クシ本村軍人家族救護救難会ノ寄附、軍資金及恤兵部献金、国庫債券応募等所謂軍隊後援義務ヲ尽スノ上ニ於テ互ニ相遅レザル様心懸ク可シ。而シテ村民中未ダニ戦時報効組合ニ加入セザルモノアラバ此際組合員トナリ該組合規約ノ実行ニ努ム可シ。今ヤ年末年首ノ回礼ヲ為スノ時機ニ近ケリ。礼ヲ欠カザル限リハ時局ニ鑑ミ歳暮ノ贈物、又ハ新年互ニ献酒ヲ為ス等ノ例ヲ廃スル等諸事節約ヲ主トシ、村民一致奉公ノ誠ヲ尽シ戦争ノ目的ヲ達スルニ勤ム可シ。