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奉公義会

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 戦争遂行の支援組織として、区町村毎に設置されたのが奉公義会・報効会である。札幌奉公義会は区長加藤寛六郎の提唱のもとに、明治三十七年三月十日に創設された。同会の目的は、「戦時に際し札幌区在住軍人・軍属にして出征及び応召の家族を救護し且犒軍をなす」とされていた(北タイ 明37・3・12)。会員は衛生組合を通じて募集され、翌三十八年九月には約二三〇〇人を数えていた。
 同会の三十七年末の収支決算は、入会金、寄付金など収入二七六二円八〇銭六厘、歳出は犒軍費、救護費など一一七三円二三銭一厘(北タイ 明38・3・29)、三十八年四月までの救護家族は四九戸(毎月給与金の合計は一二四円)、これを職業別にみると、日雇業が三三戸、行商が五戸となっており(北タイ 明38・5・3)、低所得層の困窮が著しいことがわかる。同会ではまた、三十八年九月に出征軍人・軍属の保育所設置を決定している。
 札幌村奉公義会は、三十七年に「出征軍人及其家族ヲ慰問シ戦死者ノ遺族ヲ扶助シ、一面全村民ニ対シテ軍国ニ所スルノ覚悟ヲ鼓舞スル」ために設立され(町村史資料)、三十八年二月の会員は五二九人、寄付総額は四〇一円、救護戸数は三戸七人であった(北タイ 明38・2・15)。
 琴似、発寒村では三十八年五月に、「在住軍人出征犒軍及応召家族を救護」する目的で琴似・発寒救護団を組織し、戦死・病没者への弔祭料贈呈と家族・遺族の救護にあたることとした(北タイ 明38・5・24)。その後間もなく、新琴似の戦時報効組合と合併し琴似・発寒奉公義会と改称している(北タイ 明38・6・4)。
 以上の官設的な団体のほかにも帝国婦人会、愛国婦人会などの婦人団体、町内会組織による様々の支援、救護活動も展開されていた(第七章参照)。