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製麻会社の共済会と「掖済事業」

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 製麻会社ではすでに明治二十九年頃に、「社内職工及事務員一般の疾病其他不時の災難の為め困窮する者を救済する」目的で共済組がつくられていた(道毎日 明29・8・14)。会社では職工共済会をつくり、三十三年一月一日をもって規則を実施したが、これは「疾病其他困厄ニ罹リタルモノヲ救済スル」ことを目的とし、通常会員は毎月会費(男五銭、女三銭)を捐出し、負傷・疾病による休業、死亡などの場合、救済金を得ることになっていた。職工共済会は会社が主導して創設したとはいえ、職工たちの捐出による自主的な運営組織であったといえる。基金は四十四年には五〇〇〇円以上に達していたという。
 工場労働者、特に女子、年少労働者の保護を求める世論も次第に活発となっていき、政府も工場法の制定を明治三十年代に入り本格的に検討し、ようやく四十四年三月に制定され、大正五年九月に施行となった。
 工場法の問題が検討されるにつれ、会社側でも職工の福利厚生などの「掖済事業」に力をいれるようになる。それは行余学校の設置、裁縫・家事の教授、宗教講話の実施、娯楽・慰安の施設設置と行事の設定、衛生と治療の施設・制度の整備などであった(北タイ 明42・4・28、小樽新聞 明42・5・24)。これらは労働者の保護のみならず、強まる世論の批判に答えると共に、激しい職工獲得競争の中で、職工の安定的な確保と工場定着化などをはかる企業存続をかけた施策でもあった。
 以上の中で特に市民の間で名物となったのは、従業員の慰安行事の花見と運動会である。四十四年の場合、ビール、酒、食物などを満載した五台の馬車を先頭に、楽隊の演奏の中を何本もの旗を翻しながら晴れやかに仮装した長蛇の行列が続き(この日は九三〇人が参加)、「通路は此壮観を見物せむとて人垣を築き非常の賑ひ」であったという。さらに運動会の見物客も多く、「女工連の競技は毎回観客の大喝采を博」していた(北タイ 明44・5・14)。職工たちも、この日ばかりは日頃のつらい労働を忘れ、つかの間ではあるが慰安の一日を過ごしたことであろう。

写真-7 明治44年に行われた製麻会社の観桜運動会の仮装行列