警察は逮捕者の持っていた住所録や書簡類を押収し、住所録に名前の出ている者や書簡を送った者を片端から取り調べた。
札幌では大石泰蔵が、新村忠雄、大石誠之助、坂本清馬の住所録に名前が出ていたので有力な社会主義者とみなされ、尾行をつけられた。秘密出版の『麵麭の略取』を配布したことも突きとめられた。大石は四十五年七月に農科大学を卒業したが、就職が難しかったため北龍村岩村で農場経営を始めたが、大正二年の大凶作で打ちのめされてしまった。
山田ミツは、竹内余所次郎の勧めで竹内のアメリカ時代の友人で無政府主義者の渡部代三郎と結婚して、夫の郷里である会津在に移ったが、社会主義者狩りにおびえた夫の家族から暴行を受け、樺太に移住していた両親の下に戻り、小学校の教師になった。大正二年に上京し、小学校に勤めるかたわら「婦人はたらき会」を組織し、新婦人協会の結成に参加し教育部長となる。
逢坂信忢も札幌で職を得ることができず救世軍に入った。明治四十四年に北海中学校を卒業した前田則三も札幌では生活できず、亡父英吉(四十二年死去)と親交のあった留岡幸助の経営する家庭学校に勤務することになった。
北海道師範では、河野庄八がキリスト教から社会主義に転じたが、やはり圧迫を受け、大正五年に付属小学校から転出させられた。新聞に「如何なる階級にも交わり父兄児童の信用篤し今や有為の青年教育家を失ふ噫惜むべし転免多き該校にて氏は又能く栄達を他所に見て物質的に死し精神的に生きたること又教育者の一異彩と謂ふべし」という河野の転勤を惜しむ一父兄の投書が載った。
札幌に流れてきた社会主義者(和歌山の前田徳五郎など)には尾行が付き、就職を妨害した。
写真-13 社会主義運動冬の時代到来に際し,竹久夢二は雪の下に埋
もれている若芽を描き,同志に感銘を与えた(北タイ 明治44.1.10)