明治末年から大正初年の頃、巷では主義者といえば犯罪を起こす危険な人びととみられ、恐れられていた。だが大正中期になると、市井の人びとの社会主義者観が変化し、社会主義者を畏敬の眼でみる人びとも増加してきた。社会主義運動に関心が深まり、社会主義演説会に人が集まるようになった。
開道五十年のお祭りムードが消えた大正八年になると、各方面で社会主義に関する発言がめだってきた。二月十一日には札幌師範の演説会で、一生徒が社会主義や民本的社会改良主義に関する演説を行った。社会主義を論ずることがタブーだった師範では画期的なことであった。十六日には北大弁論部が普通選挙促進学術講演会を開いた。八月二十七日には、時計台で早稲田大学学生演説会が開催され、稲村隆一が軍拡論を批判した。
この年、友愛会が大日本労働総同盟友愛会と改称した。札幌の友愛会員の間に、改称を機会にそれまで三つあった友愛会支部をひとつにまとめ、新たに総同盟札幌支部を創設しようとする議が起こり、十月三十一日、時計台で支部発会式が行われることになった。この発会式は、労働者の意見をまとめることができず解散になってしまった。労働者は総同盟ではあきたらなかったのである。八年には、無政府主義系の『自由労働新聞』が札幌で創刊された。
九年一月に結成された北海道労友会は、労資協調を掲げた組織であったが、木下三四彦が指導していた。十一月に開催された北大高商連合弁論会では、沢村克人が従来の忠君愛国の浅薄であることを批判し、高商の中川久平が資本論について論じ「科学の進歩は伝説の自然消滅である」と説いた。この年、北海道庁の嘱託であった川上貫一が全道をまわり、社会事業の必要を説いた。長官のもとに「川上は社会主義の宣伝をしている」という投書が舞い込み川上を苦笑させた。川上は社会事業懇和会を結成して社会事業の指導にあたっていたが、まだ社会主義者ではなかった。
十年一月には、東大新人会の遠征隊が札幌を訪れた。新人会の運動には北大の朝鮮人学生も共鳴していた。六月十二日に時計台で開催された北大弁論部の弁論会では、予科の稲村順蔵が「ふみにじられた草や毛虫と我々とどれだけの差があるだろう」と心の中の煩悶を告白し、水産科の前田茂が「水産業に従事しているプロレタリアのために水産保険会社を組織せよ」と説き、本科生の鹿討豊雄が「奴隷は主人の所有物であったと言う事のみが、現代の労働者と往時の奴隷との差である」と論じた。鹿討は社会主義者とみなされ、警察や検事局の取調べを受け、伯父の佐藤昌介から「君は北海道で就職するな」と言われた。十月十五日には、賀川豊彦の演説会が開催された。賀川は豊平の細民街を視察し「全国でもっともひどい生活を営んでいる」と評した。
十一年八月五日には、早稲田大学講演会が中央創成小学校で開催され、一〇〇〇人の聴衆が集まった。安部磯雄が「社会問題の帰結」と題する演説を行った。この頃、有島武郎が農場解放を宣言したことが伝えられ論議を呼んだ。北大の農学実科の生徒であった山辺清は、この年の二月に日本農民組合に加入した。