ビューア該当ページ

営業主の巻返しと廃業娼妓

571 ~ 573 / 915ページ
 娼妓自由廃業が認められて以来、貸座敷営業主は娼妓の引止め策として、待遇改善にあわてて乗り出す始末であった。三十三年九月に薄野貸座敷組合で出した待遇改善案では、①貸金高の四分の一を稼ぎ終わりの際切り捨て、②稼ぎ高の切半を四分六分と改め六分を娼妓に、③貸金に利息をつけないこと、④入院中の薬価料の半額と賄料を営業主持ちとすること等を定め、警察署長立会いのもと両者で調印が行われた(道毎日 明33・9・30)。
 しかし、表11でみたように自由廃業する娼妓はあとをたたず、三十三年十二月末までに三七〇余人の娼妓のうち一三〇余人が自由廃業した(道毎日 明34・1・13)というくらい、「娼妓取締規則」第五条が娼妓の味方となった。営業主は経営に支障をきたし、貸座敷賦金を納められず営業停止処分に追い込まれるものも相次いだ(北タイ 明35・1・19)。営業主は自らの故郷である新潟・宮城・山形各県へ出向き、新規娼妓抱入れに奔走した(道毎日 明34・2・21~6・9)。
 貸座敷・娼妓数が三十三年九月以前の状態に戻ってゆくのは日露戦争後のことである。表12は、明治末から大正期にかけての娼妓数と娼妓の開・廃・休業内訳および遊興人員・遊興費を掲げたものである。これをみてもわかるとおり、娼妓数がもっとも多くなるのは四十一年の四三五人である。もっともこの数値の陰には開業はもとより、廃業、休業者がいることから延べ人員にするとかなりの数が想定される。四十二年以降の開・廃・休業者数の多さは、娼妓の出入りの激しさを物語っていよう。当時の新聞によると、明治三十九年中の娼妓の廃業・自廃の内訳は次のようであった。
   明治三十九年中廃業・自廃の内訳(91人)
  ①遊客の出金より債務弁償の上     17人
  ②父母・親族の出金より債務履行    11人
  ③自己の稼業により債務弁償      12人
  ④他へ寄留替え            21人
  ⑤疾病その他の理由により楼主より勘弁  2人
  ⑥楼主廃業に際し合意、廃業の事実不明  2人
  ⑦病気理由に自廃           12人
  ⑧悪意より債務不履行          4人
  ⑨その他逃亡者             8人
  ⑩死亡者                2人
(北タイ 明40・2・27)

表-12 明治末・大正期の娼妓数および遊興人員・遊興費
貸座敷数娼妓開業廃業休業遊興人員遊興費
明3840軒351人
 4134435
 4234292418495,789228,900円525
 43313395610998,402252,190.320
 44333318088105,267268,006.510
大132301111141102,560266,058.582
 23331217699,232259,142.700
 3333085854889,855222,836.360
 4333252811107,256257,427.840
 533314971053131,928313,756.170
 633332108846172,281443,627.070
 7332922666207,702733,304.530
 832292132132207,698984,747.265
 9272151061831164,125920,190.905
 103224694594121,346590,232.370
 113627611989133,687661,423.795
数値は原文のまま。『北海道庁統計書』より作成。

 この内訳のごとく、「債務弁償」といった負債返済の義務を負って廃業している者が九一人中四〇人と、全体の四四パーセントにも達しているのがわかる。三十五年判決の「負債は返済の義務あり」を娼妓たちは遵守せざるをえなかったのである。