日清戦争時に軍人家族保護会として設立された軍事援護団体は、戦争終結とともに一旦解散され、北海道尚武会として再組織された。日露戦争に際して再び活動が活発化し、三十八年各町村に婦人部を設置し、おもに出征軍人及び戦死者遺骨の送迎、さらに困窮者救助にあたった(北タイ 明38・1・8、25)。
いま一つ札幌奉公義会は、日露戦争勃発の三十七年二月、札幌区長加藤寛六郎発起となり、出征軍人軍属の遺族救済を目的として設立された。三十八年四月には、札幌区の宮部保子(札幌農学校宮部金吾教授夫人)たちに呼びかけて婦人委員を募り、戦争終結まで毎月一〇銭ずつ献金することとした。婦人委員は手弁当で入会者を戸別訪問して勧誘し、一人でも多くの会員を募ったが、同年十月終了した(北タイ 明38・4・23~10・27)。
このように日露戦争下において、官制女性団体は官主導のもとに出征兵士の送迎・慰問、軍人遺家族救護、傷病兵慰問、献金活動等に自発的にあるいは半強制的に銃後を支える大きな組織体として活動した。その一方で、強制入会に対し遺憾の声が発せられる自由さもまだ残されていた。