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製糸女工

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 明治三十年代以降の札幌の製糸業は、開拓使時代の手厚い保護にかかわらず、小林製糸場(明治二十二年創立)が女工五人くらいで細々と続けている状況であった。そこへ三十六年、名取好勝が座繰製糸場を北五条東三丁目に設立し、女工一〇人くらいを雇い入れて操業に入った。同時に機織五台を入れて甲斐絹(かいき)の生産にも着手した(北タイ 明36・10・3)。さらに翌三十七年、札幌製糸場が北八条東二丁目に開業、女工募集を行った(北タイ 明37・7・19)。四十二年には女工四〇人が働いていた(札幌区統計一班 明治四十三年)。
 一方北海道庁も養蚕・製糸の奨励に努力し、三十八年には北三条西一一丁目の農桑館において女子養蚕伝習所を設立して養蚕伝習にあたった(北タイ 明38・6・3)。それと並行して同年、北海道蚕糸会本部(北一条西一九丁目)でも、座繰製糸・真綿製造の伝習を開始し、年齢一五歳以上の身体強健・品行方正な女子を各町村より一名ずつ募った。伝習内容は、一日五時間ずつ座繰製糸三〇日間、製綿二〇日間であった(北タイ 明38・8・24)。
 このような官民合わせた奨励のもとに四十二年には、小林製糸場・札幌製糸場・名取製糸所の三つの工場に一一〇人の製糸女工が働いていた(表21)。ところが四十三年には札幌製糸場は札幌製綱所となり亜麻ロープ製造に転業、大正五年(一九一六)にはついに小林製糸場の一工場だけとなり、一五人が働いているだけとなった(札幌区統計一班 大正六年)。
表-21 製糸女工数(明42~大9)
小林製糸場名取製糸場札幌製糸場合計
明42年5人65人40人110人
4365460
44105363
大 110
255459
375463
4155469
51515
61515
777
85813
955
1.大正8年の札幌製糸場の8人は松原製糸所のことと思われる。
2.『札幌区統計一班』明43~大10より。

 最盛期とみられる四十四年の名取製糸所(四十年に合資会社となる)の女工の待遇をみると、女工数五〇人、うち二〇人が寄宿舎に起居していた。寄宿舎は九畳一室に四~五人。一日の賄料は一一銭、不足分は工場側が負担。作業時間は朝六時より午後六時まで、繁忙期は夜九時まで残業した。日給は一等工女七〇銭、二等三九銭、平均五〇~六〇銭であった。休日は一日と一五日で、月末に工賃という形で支払われた。貯金も工場主へ二〇銭、五〇銭、一円といったようにするようになっていたが、四十三年からは各自が郵便貯金にすることとし、なかには貯金額が三〇〇円に達した女工もいたという(北タイ 明44・10・14)。工場主と女工の関係はきわめて家族的な関係を保持していた。