一方、米穀・雑貨商古谷辰四郎商店は、区役所、札幌警察署斡旋のもとに、八月十五日より東小学校(南一条東五丁目)において白米廉売を開始した。販売は一戸五升以下と制限し、切符制度をとり現金引換の上とし、一升二〇銭で販売を開始した。まず台湾米五〇〇俵が、引き続き外米五〇〇俵が一日三〇俵限度で向こう三〇日間という予定であった(北タイ 大7・8・17)。小樽で先に廉売を開始していた共成株式会社は、十九日より共成札幌支店(南二条西三丁目)でとりあえず越中二等白米二〇〇俵を一升三〇銭で販売開始した(北タイ 大7・8・19)。さらに札幌白米卸商で組織する「五の日会」でも、区役所、商業会議所と協議した結果、各会員提供の一三五〇俵を一升三五銭で青物市場(大通東二丁目角)で、十八日より一戸五升以内として販売開始した(北タイ 大7・8・18)。
写真-18 札幌の米廉売を報じ,富山の「女房一揆」を風刺した新聞
(小樽新聞 大7.8.17)
もっとも早く廉売を開始した古谷商店の売行き状況は、十五日が二五七人、十六日が三三四人であった。十六日の売上高は一三石七斗三升で、内訳は五升購買者二六三人、四升六人、三升一四人、二升五合一〇人、二升二四人、一升五合・一升・五合各一人、その他となっていた(北タイ 大7・8・18)。
一方、共成札幌支店の方は、越中二等白米一升三〇銭ということで販売開始したところ、売出し二日目には七〇〇人の主婦が押し寄せて、またたく間に七〇俵余が売れた。三日目には主婦や娘たち約一〇〇〇人が、同倉庫前に黒山の人垣をつくってどよめき立っていた。その様子を新聞記者は次のように報道した。
洋傘も冠らず、乱れ髪の細民の子女が多く、手に手に風呂敷、空箱等を提げ、「まだか、まだか」と待ち侘ている。夕日に照らされ、汗ばみ乍ら犇めき合って先を争ふ店先には栅を設け、鉢巻の若い店員等が「押すな/\今売る/\」と叫んでいる。警官も仕切りに制していた。隣の丸大油屋の店内まで詰懸け休むでいるものもある。背中の赤ん坊が泣き出すやら乳母車を気にし乍ら「押しちゃ厭です」と呟いている若い奥様もあった。待ち草臥(くたびれ)て「とっても買はれない。当り付かないわ」と叫んでいた娘連もあった。「毎日午後四時から七時迄廉売」と大きな貼札があるが、僅々二百俵で一人五升以内とあるのに夥しい買手であるから殺気立っていた。
(北タイ 大7・8・22)
結局この日の共成札幌支店の売上総量は二八石二斗五升で、細別すると、五升売り五四六人、四升四人、三升一七人、二升一〇人、一升二人などの計五八二人であった。しかもその購買者は新聞報道にはやや誇張があり、実際は中流生活者の主婦・娘がほとんどで、細民らしき人は一割程度であった。一家の台所を切り盛りする主婦たちにとって、主食とする米の購入がこんな状況であったので、官による早急な安定供給が望まれた。